The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

2005-01-01から1年間の記事一覧

 ジョルジョ・アガンベン『涜神』(上村忠男、堤康徳訳、月曜社、2005年)

ジョルジョ・アガンベン(1942- )が、みずからの思考の核心を述べたという小さな書物。この書物のタイトルにもなっている「profanazione〔複数形ではprofanazioni〕」という語は、(アガンベン自身はこの書物のなかでは語源に触れていないが)「pro〔前に〕…

 小林道夫『科学哲学 (哲学教科書シリーズ)』(産業図書、1996年)

おもに物理学の領域における哲学的問題を概説した書物。「理論」「観察」「実験」の相互関係や「実在」をめぐる議論を的確に丁寧にまとめていて分かりやすい。この書物では、物理学における理論的存在(電子とか)の「実在」を認めない「帰納主義」「実証主…

 デイヴィス・ベアード『物のかたちをした知識 実験機器の哲学』(松浦俊輔訳、青土社、2005年)

デイヴィス・ベアード(1954- )が、実験器具などの「物〔thing〕」もまた理論と同じく科学的知識を担っていることを論じた書物。科学の知識は、たんに頭のなかにある「信念」として(だけ)ではなく、実験器具をはじめとした諸々の装置や機器などの「物」と…

 キャシー・カルース『トラウマ・歴史・物語 持ち主なき出来事』(下河辺美知子訳、みすず書房、2004年)

キャシー・カルースが「トラウマ」概念をめぐって、フロイト、ラカン、ド=マン、レネ+デュラスらの作品を考察した書物。カルースは、フロイトの「快原理の彼岸」や『人間モーセと一神教』をもとにして、トラウマを「ある危機的な出来事を、それと知らぬ間…

 イザベル・スタンジェール『科学と権力―先端科学技術をまえにした民主主義』(吉谷啓次訳、松籟社、1999年)

イザベル・スタンジェール(1949- )が、現代社会における科学をめぐる「政治」について論じた書物。現代社会において、科学を専門としない人々にとっては、科学の専門家が言うことを「黙って受け入れる」か「闇雲に反発する」かの二択しかないように見える…

 ガストン・バシュラール『科学認識論』(ドミニック・ルクール編、竹内良知訳、白水社、新装版2000年)

ガストン・バシュラール(1884-1962)による科学認識論のテクストを、ドミニック・ルクール(1944- )が取捨選択し再構成した書物。さながら、ルクールがバシュラールの引用のみで書いた書物、といった趣だが、バシュラールの思考とルクールの立場とを同時に…

 ノーウッド・ラッセル・ハンソン『科学的発見のパターン (講談社学術文庫)』(村上陽一郎訳、講談社学術文庫、1986年)

ノーウッド・ラッセル・ハンソン(1924-1967)が、科学における「見ること」をめぐって考察をおこなった書物。ハンソンによれば、「見ること〔seeing〕」とは「として見ること〔seeing as〕」であり、「であることを見ること〔seeing that〕」である、という…

 ジャン・スタロバンスキー『自由の創出―十八世紀の芸術と思想』(小西嘉幸訳、白水社、1982年/新装版1999年)

ジャン・スタロバンスキー(1920- )*1が、18世紀フランスの芸術と思想を「自由」をめぐる問題系として読み解いた書物。啓蒙主義とロココ趣味、崇高と優雅が同居する18世紀フランスは、なによりも感情と運動を重視し、そこから互いに相容れないようなさまざ…

 ロラン・バルト『現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)』(下澤和義訳、みすず書房、2005年)

ロラン・バルト(1915-1980)が、現代フランスにおいて「あたりまえのこと」と思われているものを「神話」として分析した書物。「神話」は、なにかを覆い隠したり、あるいは顕示したりはしない。ただ、変形し、屈折する。屈折=妥協形成。のちには〈デノテー…

 ガストン・バシュラール『新しい科学的精神 (ちくま学芸文庫)』(関根克彦訳、ちくま学芸文庫、2002年)

ガストン・バシュラール(1884-1962)が、相対性理論や不確定性原理といった20世紀前半(バシュラールの同時代)の科学理論における客観性の在り方について論じた書物。バシュラールの科学哲学において重要なのは、「プロセス」の重視にあるように思う。たと…

 ホセ・オルテガ・イ・ガセット『芸術論』(オルテガ著作集 (3)、神吉敬三訳、白水社、1970年/新装版1998年)

ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)による美学の論考「美術における視点について」「芸術の非人間化」、およびベラスケスとゴヤについての論考を収録した書物。メタファーは現実を回避するために使用される、という名高いメタファー論も含んだ「芸術…

 アラン・コルバン『風景と人間』(小倉孝誠訳、藤原書店、2002年)

アラン・コルバン(1936- )がおもに18世紀以降のフランスの「風景」の歴史について、インタヴューに答えるかたちで語った書物。物理的な環境が、ある特定の捉えられ方をすることで「風景」となる。そこには、視覚だけでなく、聴覚や嗅覚、触覚、さらにはそ…

 ジョルジョ・アガンベン『バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』』(高桑和巳訳、月曜社、2005年)

ジョルジョ・アガンベン(1942- )が、ハーマン・メルヴィルの小説『バートルビー』を、「潜勢力」の問題系から読み解いた書物。なにかを「することができる」ということは同時に「しないことができる」ということでもある。アガンベンはこうした潜勢力(可…

 エウヘニオ・ドールス『バロック論』(神吉敬三訳、美術出版社、1970年)

エウヘニオ・ドールス(1882-1954)が、「重く沈むかたち」たるクラシックと対になる「飛翔するかたち」たるバロックについて論じた古典的書物(フランス語訳1935年、スペイン語版1943年)。それまではたんにクラシックの否定や堕落としてのみ語られてきたバ…

 池上俊一『身体の中世 (ちくま学芸文庫)』(ちくま学芸文庫、2001年)

中世西ヨーロッパにおける身体の在り方や、身体についての思考、身体を通しての思考を概観した書物。中世も現代も人間の身体構造自体はそれほど変化がないにしても、その捉え方は大きく異なっている。もちろんそれは儀礼や衣装、医学(治療や衛生)などの場…

 ジャン・ブラン『手と精神』(中村文郎訳、法政大学出版局、1990年)

ジャン・ブラン(1919-1994)が、人間の「手」の解剖学的構造や機能から象徴的な意味までを辿りつつ、「把握すること」「触れること」について考察した書物。人間と動物との区別を規定しようとするとき参照されるものとしては、さしあたり「ことば」がまず思…

 市野川容孝『身体/生命 (思考のフロンティア)』(岩波書店、2000年)

生死の概念が西洋の医学においてどのように捉えられてきたかを、その政治的な側面を視野に入れつつ辿った書物。「西洋」と一語でいったところでその内実は多様で複合的であり、決して一枚岩ではないため、当然「生死」の概念も多様な変遷を経ている。脳死や…

 水島茂樹『“解放”の果てに―個人の変容と近代の行方』(ナカニシヤ出版、2003年)

とりわけジョン・メイナード・ケインズとマルセル・ゴーシェを主な導きの糸として、現代社会を「経済」と「他者」から解放されつつある社会として論じた書物。啓蒙が進めば進ほど人は成熟できなくなっていく。このパラドクスは啓蒙に内在的な論理の帰結であ…

 河野哲也『環境に拡がる心―生態学的哲学の展望 (双書エニグマ)』(勁草書房、2005年)

生態学的な存在論の視点から、身体、他人、言語、技術、動物、自由を捉えなおした書物。「心」なるものをそれ自体として取りだして考察することがいかに問題があるかを、前著『エコロジカルな心の哲学』にひきつづき明晰かつ説得的に論じていて面白い。内的…

 ジョルジュ・カンギレム『生命の認識 (叢書・ウニベルシタス)』(杉山吉弘訳、法政大学出版局、2002年)

ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)による、生物学・医学における生気論の問題系などを扱った論文集。なによりもまず、「生気論(vitalisme)」についての特異な解釈が強く印象に残る。カンギレムによれば、生気論とは一般にそう思われているような神秘主…

 ベネデット・クローチェ、ルイジ・パレイゾン『エステティカ―イタリアの美学 クローチェ&パレイゾン』(山田忠彰、尾河直哉編訳、ナカニシヤ出版、2005年)

ベネデット・クローチェ(1866-1952)とルイジ・パレイゾン(1918-1991)の美学論をそれぞれふたつづつ翻訳して収録した書物。さすが近代美学の最高峰クローチェだけあって、美の純粋な在り方をこの上なく明晰に描きだしていく。芸術の美は快楽とも道徳とも…

 Jean-Philippe Antoine, Six rhapsodies froides sur le lieu, l'image et le souvenir, Desclée de Brouwer, Paris, 2002.

ジャン=フィリップ・アントワーヌ(1957- )による『場、イメージ、思い出についての六つの冷たい狂詩曲』から、フロイトの精神分析と古代の記憶術との照応関係を論じた第一章「記憶の名をつかむ――記憶術のイメージ」。古代以来の記憶術は、「記憶しておき…

 Georges Didi-Huberman, Être crâne. Lieu, contact, pensée, sclupture, Minuit, Paris, 2000.

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(1953- )によるジュゼッペ・ペノーネ論『頭蓋になること』。ディディ=ユベルマンはペノーネの作品の根幹にdéveloppementを見いだす。このdéveloppementは視覚的には「現像」(写真などの)という意味であり、時間的には…

 金森修『フランス科学認識論の系譜―カンギレム、ダゴニェ、フーコー』(勁草書房、1994年)

科学認識論系の哲学者ジョルジュ・カンギレム、フランソワ・ダゴニェ、ミシェル・フーコーの議論を紹介しつつ、いくつもの主題を概観した書物。カンギレムやダゴニェの議論についてはやや紹介という色合いが強く、そこで問われている問題自体は簡単な素描に…

 港千尋『影絵の戦い―9・11以降のイメージ空間』(岩波書店、2005年)

現代社会におけるイメージの問題を、実体とその影というメタファーから出発して考察した書物。過去の痕跡を読み、そのデータを蓄積するという行為が、未来を予測するという行為と不可分であることを論じている箇所があるが、そこで面白いのは、かつてはこれ…

 アラン・バディウ『倫理―〈悪〉の意識についての試論』(長原豊、松本潤一郎訳、河出書房新社、2004年)

アラン・バディウ(1937- )が、現在支配的な倫理の言説の欺瞞を苛烈に批判した書物。一方では、善意やユマニスム(人道とか人間性とか)などの名のもとに、〈同情者/犠牲者〉の権力構造を再生産し続ける「似非カント主義」(カント本人ではない)が批判さ…

 松原洋子、小泉義之編『生命の臨界―争点としての生命』(人文書院、2005年)

生命倫理や環境倫理について問いなおした、いくぶん論争的な姿勢に貫かれた書物。生命の序列化や差別化(優生学的なものから「QOL」論的なものまで)を批判し、生の複数性をいかに肯定するかについての問いが、この書物全体に通底しているように思う。自己決…

 鈴木雅雄編『シュルレアリスムの射程―言語・無意識・複数性 (serica archives)』(せりか書房、1998年)

「日常において抑圧されている無意識の欲望を解放する試み」という通俗的なシュルレアリスム理解を一新する論文集。「オートマティスム」や「客観的偶然」といった概念によって、シュルレアリスム(というかアンドレ・ブルトン?)が提起した問題は、とりわ…

 アラン・バディウ『哲学宣言』(黒田昭信、遠藤健太訳、藤原書店、2004年)

アラン・バディウ(1937- )が、おもにドイツやフランスの現代哲学を概観しつつ、みずからの哲学的企図を述べた書物。「出来事」の表象不可能性をまえに体系的に語ることを放棄し、哲学の務めをただ「批判」機能(=現状の否定)にのみ縮減してしまう現代哲…

 中山康雄『共同性の現代哲学―心から社会へ (双書エニグマ)』(頸草書房、2004年)

言語行為論や心の哲学の知見から、共同性について分析した書物。コミュニケーションや会話を、コードモデルや推論モデルではなく、一連の行為の連鎖として分析するというのは重要な視点だろう。だが、〈心/身体〉〈自/他〉〈個人/集団〉といった区別がや…