The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 キャシー・カルース『トラウマ・歴史・物語 持ち主なき出来事』(下河辺美知子訳、みすず書房、2004年)

トラウマ・歴史・物語 持ち主なき出来事


キャシー・カルースが「トラウマ」概念をめぐって、フロイトラカン、ド=マン、レネ+デュラスらの作品を考察した書物。

カルースは、フロイトの「快原理の彼岸」や『人間モーセ一神教』をもとにして、トラウマを「ある危機的な出来事を、それと知らぬ間に生き延びてしまうこと」によって引き起こされるとする。「それと知らぬ間に」、つまり「理解しえぬままに」生き残ってしまったからこそ、その出来事は理解されるまでいくども回帰するのだという。この「出来事とその理解との時差、遅れ」こそがトラウマの本質であり、そこからカルースはこの「事後性」の構造を個人的体験だけでなく歴史理解一般へと拡張しようとする。そうすることでカルースがねらうのは、「過去の事実と十全に一致することこそが過去を指示すること」という通念を解体しつつ、遅れやずれといった語りの欠陥そのものにこそ過去への指示作用があるとすることだろう。つまり、過去の透明な表象を脱構築することは決して現実や真実を放棄することではなく、むしろ現実や真実のためにこそなされる、ということをカルースは示そうとしているように思う。

具体的なテクストや映画の読みに沿って議論を進めていくカルースの手法は、あくまでも作品に密着するゆえの物足りなさ(より広い歴史や社会的な出来事へと分析結果を拡張できることをほのめかすだけに終わってしまう)があるが、たしかに面白く、読み手を惹きつける。とはいえ、やはり「トラウマ」という概念そのものの問題点は解消し切れていないように思う。

「出来事とそれに対する理解との時差や遅れ」という問題は、なにもトラウマ固有のものではなく、アーサー・ダントーが『物語としての歴史―歴史の分析哲学』で分析して見せたように、歴史記述一般の特徴だと言える。とすると、あらゆる歴史的出来事はトラウマであることになるのだろうか。それともトラウマは、ある特定の出来事、危機的な出来事にのみ特権的に当てはまるのだろうか。「トラウマ」という概念の危うさは、ここにあらわれている。つまり、トラウマにはどうしても、「遅れ」によって引き起こされるとされつつも、結局は出来事の危機性や強度といったものに訴えてしまい(その危機や強度とはいったいなんだろうか)、特定の出来事のみを特権化してしまうきらいがある。だが、そうした特権的な出来事を解決できたからといって治癒しなかったからこそ、フロイトはDurcharbeitenということを提起したのではなかっただろうか。

そしてまた、「表象不可能であることを表象すること」「語りえぬということを語ること」にこそ過去の現実との接点を見いだすという(クロード・ランズマンショアー》によって広く膾炙した)考えは、本当に倫理的なものとして維持しうる立場なのだろうか。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンやミリアム・ハンセン、あるいはジャック・ランシエールによる批判をここで持ちだすこともできるだろう。また、少し考えてみれば、結局のところ「表象することなく表象し、語ることなく語る」ことは、実は一般に広く膾炙した通念に無批判に依存しているのではないだろうか。語りのなかからいっさいの具体的な内容を放逐しようと、その語りがたしかに出来事について語ることができているのならば、そのときその語りはジョン・サールが述べるところの「寄生的な」指示をおこなっているに過ぎないのではないだろうか。