The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 アラン・バディウ『哲学宣言』(黒田昭信、遠藤健太訳、藤原書店、2004年)

哲学宣言


アラン・バディウ(1937- )が、おもにドイツやフランスの現代哲学を概観しつつ、みずからの哲学的企図を述べた書物。

「出来事」の表象不可能性をまえに体系的に語ることを放棄し、哲学の務めをただ「批判」機能(=現状の否定)にのみ縮減してしまう現代哲学に抗して、バディウは哲学をもっと肯定的なものとして提示する。すなわち、バディウは哲学を、状況に回収しえない「出来事」を語りうるような場をあらたに構築する試みとして捉える。この本はハイデガーナチス荷担がフランスで大きく問題となっていた頃に書かれたこともあるのだろう、構築としての哲学の在り方が倫理的な態度としても提示されているように思う。現代では構築や表象は非倫理的だとされることも多いように思うが、しかしだからといって「表象不可能性」を言い募るのは、ジョルジョ・アガンベンジョルジュ・ディディ=ユベルマンが正しく批判したように、決して倫理的な態度ではないだろう。むしろ、現状を批判すると同時にオルタナティヴの提示をも批判し、決定不可能性に踏みとどまろうとする思考は、実はメタ・レヴェルに立とうという誘惑の(最後の)形態なのではないだろうか、と思ってしまう。

バディウの議論の面白さのひとつは、〈科学/芸術/政治/愛〉の四つを軸に哲学を分析するところにある。「技術(=科学)」と結びついた哲学が客体性偏重に陥った(そして主体性の形而上学はその相関物である)としたハイデガーは、その「技術=科学」がもたらした〈主体/客体〉の構図を打破するためにみずからの哲学を「詩(=芸術)」へと接近させた、というバディウの分析は、ハイデガーが〈技術/詩〉あるいは〈科学/芸術〉を対立させて捉えていたことを浮き彫りにする。〈技術/詩〉や〈科学/芸術〉の対立という考えが陳腐ものだというのはいまや自明となっている気はするが、それでも、「技術=科学=客体性の優位=フェティシズム」への批判が今日でもしばしば「詩=芸術=主体と客体との融合=ヴィタリスム」へと陥りがちなのを考えるなら、笑って済ませることはできないだろう。