The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ベネデット・クローチェ、ルイジ・パレイゾン『エステティカ―イタリアの美学 クローチェ&パレイゾン』(山田忠彰、尾河直哉編訳、ナカニシヤ出版、2005年)

エステティカ―イタリアの美学 クローチェ&パレイゾン


ベネデット・クローチェ(1866-1952)とルイジ・パレイゾン(1918-1991)の美学論をそれぞれふたつづつ翻訳して収録した書物。

さすが近代美学の最高峰クローチェだけあって、美の純粋な在り方をこの上なく明晰に描きだしていく。芸術の美は快楽とも道徳とも物理とも論理とも異なるということを、順を追って説得的に論じていく。しかし逆にそこであらわになるのは、そのような純粋なかたちでの美なるものの経験は実際にはありえない、ということのように思う。クローチェ自身もそのことに気づいていたのだろう、芸術の美を一度すべてのものから切り離して純粋なかたちで取りだそうとしておきながら、最後の最後で突然、芸術の美のうちには全てが含まれているという議論に移行する(これは「美」だけでなく「批評」概念についても同じである)。分析が極限で総合へと反転する。ここにおそらくクローチェ美学の臨界点があるのではないだろうか。(それとは別に、クローチェの真理/誤謬の理論は面白い。純粋な誤謬は存在しえず、むしろ誤謬のなかにこそ真理が孕まれているという発想は、いろいろな方面へと接続可能だろう。)

パレイゾンの形成性の解釈学は、ある意味で「演奏」という概念によって、作者も読者も媒介者も作品の形成にかかわる存在として一元化するところにその革新性があるだろう。作者が読者へメッセージを伝えて読者がそれを読解する、というような古くさい情報理論とはことなって、パレイゾンの解釈学の観点からすれば、作品(かたち)の形成が次々と異なる人に受け渡されていくことになる。この形成にしても、パレイゾンにとっては、定まった規則にしたがったものではなく、あるものをつくりだしつつ、そのつくりだす規則も同時につくりだしていくようなものだという。こうしたパレイゾンの思考は、もちろんひとつにはハンス=ゲオルク・ガダマーの解釈学などと突きあわせる必要があるだろうが、同時に、オートポイエーシスの思考へと接続してみても面白いように思う。