The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ロラン・バルト『現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)』(下澤和義訳、みすず書房、2005年)

現代社会の神話―1957 (ロラン・バルト著作集 3)


ロラン・バルト(1915-1980)が、現代フランスにおいて「あたりまえのこと」と思われているものを「神話」として分析した書物。

「神話」は、なにかを覆い隠したり、あるいは顕示したりはしない。ただ、変形し、屈折する。屈折=妥協形成。のちには〈デノテーションコノテーション〉として定義されるだろうふたつの記号の妥協形成こそが、「神話」を織りなす。そしてこの妥協は、アナロジーにもとづいており、そのアナロジーは歴史の所産にほかならない。歴史の所産、つまり人為によって自然が装われる。そうした神話に抵抗するためには、純然たる無意味にも、純然たるリアリズムにも頼ることはできない。むしろ、神話そのものを神話化するという捩れた戦略こそが唯一の抵抗となる。

この書物でもまた繰り返されているように、バルトの言う「ゼロ度」は、決して意味の欠如ではない。意味の欠如はいささかも「ゼロ度」にはならない。「神話」に抵抗する「ゼロ度」は、意味以前の本質を指し示すものではなく、むしろ意味以後の状態を、つまり神話を神話化することで消耗させ、疲れ果てさせた状態を指し示す。こうした観点は、のちにシニフィエ以後としてのシニフィアンコノテーションの効果=結果としてのデノテーションへと引き継がれていくだろう。

神話分析のそれぞれは、成功しているものから疑問の残るものまでさまざまだが、バルトの醒めた怜悧な視線と最小限に抑えられ無駄のない手つきを楽しむことができる。なかでもとくに印象に残ったのは「ラシーヌラシーヌだ」という同語反復の分析。同語反復は、「良識」に訴えることで「知性」を攻撃する。同語反復においては、「文明と文化」(ミシェル・トゥルニエ)が対立する。だが、形容詞なき名詞の反復たる同語反復は、結局のところ積極的なものをなにも生みださず(良識に訴えるだけなのだから)、責任も取らず(良識が責任を引き受けてくれるのだから。だが良識とは誰だろうか?)、それでいて倫理的な自己満足だけはもたらす(ラシーヌの真理のために戦ったのだから)。同語反復という「無」の力。