The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 市野川容孝『身体/生命 (思考のフロンティア)』(岩波書店、2000年)

身体/生命 (思考のフロンティア)


生死の概念が西洋の医学においてどのように捉えられてきたかを、その政治的な側面を視野に入れつつ辿った書物。

「西洋」と一語でいったところでその内実は多様で複合的であり、決して一枚岩ではないため、当然「生死」の概念も多様な変遷を経ている。脳死や臓器移植の問題についても、もちろんのこと「西洋=デカルト主義=脳中心主義」のような単純な話にはならない。死の境界は西洋の歴史にとってつねに問題となってきた(「早すぎる埋葬」への恐怖はその一例)のであり、現在においてもグザヴィエ・ビシャの伝統を受け継いで、西洋医学は生命の根幹を動物的生(思考)ではなく有機的生(身体?)に見いだしている(脳死が「死」とされうるのも、脳が生命活動の中枢と見なされうるからであって、思考や意思の中枢だからではない)。倫理的問題については、往々にしてよく知る以前に判断を求められる(求められていると思ってしまう)ために、ものごとを過度に単純化してしまうことがあるが、脳死問題においても過度の単純化に足下をすくわれがちなのは否めないだろう。そうした単純化を避けて思考するためには、やはり歴史を知ることが一番なのだろうか。

ミシェル・フーコーの言う「生政治」の簡潔で的確なまとめと、そこからの独自の議論展開も面白く、いろいろと考えさせるが、それとは別にビシャの「生命」概念に気を惹かれる。ビシャの生命論は、もちろん伝統的に生気論に位置づけられてきたように、物理的・化学的過程に生命を還元できないことを主張するわけだが、その論理はショルショ・アガンベン構造主義について指摘した論理と多くの点で一致しているように思う。アガンベン構造主義の「構造」概念が「リズム」であると同時に「数」である、つまり「全体構造」であると同時に「原理的要素」であるという二重性を孕むとしたわけだが、生気論の「生命」概念もまた、物理・化学過程が絡み合って成り立つ「全体構造」とすると同時に生命原理という生命固有の「原理的要素」と捉えてもいる。ビシャは前者に重きを置いていたとはいえ、決して後者と無縁だとも言い切れないだろうことを考えると、この構造主義アポリアは、いたるところで顔をのぞかせているのかもしれない。