The Passing +

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ルイ・マラン『王の肖像』

ルイ・マラン『王の肖像』渡辺香根夫訳、法政大学出版局、2002年 (原著1981年)

マランによれば、権力は表象としてしか存在しないという。というのも権力が成立するためには実際の物理的な暴力が潜在化され、さらに制度化されねばならず、表象こそがこの暴力から権力への変換操作をなすからだ。このとき、表象の無限性によって権力は絶対化を志向しはじめるものの、実際の暴力はあくまで有限で相対的なものでしかありえないがゆえに、権力は実際に行使されないかぎりでのみ絶対性を示唆できることになる。それゆえ権力の表象はたえず気晴らしを、逸脱をおこなう。暴力をふるわず、狩猟、行進、祝祭、晩餐へとたえず逸れていくかぎりで、権力は表象として成り立つ。

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「これはわたしの身体である」と語ったイエスの言葉が聖体を理論づけたように、「国家とはわたしである」と語ったとされるルイ14世の言葉が王権を理論づける。この言葉によって王権が成立するには、王は王の肖像を体現せねばならない。つまり、ルイ14世のほうが王の肖像を模倣して王になる。このとき王の肖像という現前する秘義的身体は、歴代の王の物語という想像された歴史的身体を表象し、かつそれを国家という象徴的な政治的身体に変換する。王は一つにして三つの身体をもち、肖像という感覚しうる身体こそが歴史と国家の蝶番になる。

ルイ・マラン『ユートピア的なもの』

ルイ・マラン『ユートピア的なもの』梶野吉郎訳、法政大学出版局、1995年(原著1973年)

ユートピアの中立性が、ただ現実社会からの分離独立というだけのことであれば、それは共通のイデオロギーに取り込まれている。そうではないユートピアの中立性は、あれでもこれでもないという二重否定によって生み出される余地であり、概念化されるまえの、可能になったばかりの思考だ。ここにユートピアの予言的価値がある。概念や理論がのちに占めるだろう場所を形成し指示するのが、二重否定の操作によるユートピアの形象だとすれば、これはまさに理論的対象そのものでもある。

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マランがモアのユートピアのみならずカントの無限定判断とフッサールの中立変容を経由して理論化する中立性は、まさしくルネサンスの相反の一致だ。モアのユートピアも、ブルーノの無限宇宙も、ルネサンス人文主義による修辞学の刷新から生まれた相反の一致でもって思考される。対立し相反するもののあいだにこそ、その二重否定を通して、批判の余地としての零度が成立する。それは移行点であって停止点ではない。操作であって存在ではない。補足であって総合ではない。この零度をしるしづけるのが、ユートピアの形象だ。概念ではなく形象だ。

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ユートピアは現実の反転でも理想化でもなく、現実においては相反する要素を移動させて――虚構化して――、不可能なはずのものが可能になる余地を生み出す。この操作は、「真面目に遊べ」を格率としたルネサンスにおける秘儀としての遊戯に通じている。クザーヌス、フィチーノ、ピーコらが神の知恵の暗示を遊戯に見たのは、遊戯こそまさしく移動であり虚構化だからか。機知、精神の遊戯たるモノグラムユートピアのモデルたるのもそのためか。

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物語と描写という言説の二形式は、一方の時間的構造化と他方の空間的構造化という差異にとどまらず、意味と指示、言語の内と外という差異ももつ。描写の無時間性は描写対象の独立性のしるしとなる。旅物語は物語を描写へと従属させて、言葉の内にその外のイメージを形成し、そうしてユートピアの形象が成立しうることになる。だがまた描写のなかには物語の痕跡が裂け目として残り、それが批判の契機、現実と虚構の衝突になる。聖書の言葉から物語画のイメージが独立していくルネサンスの動向も考慮すべきか。

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神話、悲劇、書物の差異は、現前、表象、虚構の差異でもあり、なによりもまず出来事との距離、意味と指示による移動の操作から生じている。ユートピアルネサンスという書物の時代の所産であり、また文献学の時代の所産であることに注意しよう。書物の形式、読解の行為が生み出す距離の操作が、ユートピアを可能にする。

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ルネサンスに文学がしばしば対話体をもちいたことと、歴史学が文献学を基礎にして成立したこととは、多様な言説の比較対照という点で通じ合う。批判校訂は複数の言説の駆け引き、複数の空間の戯れにほかならず、虚構が移動によって成立するものなら、すぐれて虚構的構成の操作だろう。かくして歴史は虚構化されるが、同時に虚構も歴史化される。この可逆性こそが歴史と理論の蝶番になる。ユートピアの力の源泉となる。

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ルネサンスに書物が知識の操作から知識の貯蔵へと機能を変えることは、自然の模倣の位置づけが変わることと連動しているのだろう。マランの注目する猿は、おそらく蜜蜂と並んで、その位置をしるしづける形象だ。ユートピアの宗教的寛容に、マランんは国家の世俗化と信仰の個人化という動向の予形をみるが、この寛容を可能にしている自然宗教と多言語主義の発想は、宗教を真理よりも道徳として、つまり社会的紐帯として理解するルネサンス人文主義に淵源するものだろう。

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1968年の革命のようなユートピア的実践は、歴史的条件を根本的に変革しうるが、一瞬だけあらわれてすぐに消えてしまう。ただ消えるにまかせないために、ユートピア的理論が必要だ。あとに残されたモア『ユートピア』やマラン『ユートピア的なもの』のユートピア的形象から、ユートピア的理論を通して、ユートピア的実践を繰り返し取り戻さねばならない。ユートピアはいまだかつて書物以上のものであったためしはない、とのマランの指摘は、書物のユートピア的形象こそがあれでもこれでもないよいう二重否定を通して将来の余地を切り開くことへの信頼でもあるだろう。

 

ルイ・マラン『絵画の記号学』

ルイ・マラン『絵画の記号学』篠田浩一郎、山崎庸一郎訳、岩波書店、1986年(原著1971年)

所収の論考「絵画記号学原理」で、マランはタブローの空間を「ユートピア」だと形容している。タブローは、枠内に観者の視点と視線を組織化する行動の実存的空間、生きられた空間だが、その実存的空間を無化して出現する本質的場所、ユートピア的祝祭でもあるという。イリュージョンではなくユートピア。観者は絵画のただなかで見て(voir)、絵画は観者を眼差す(regarder)――配慮し向かい合う――とは、のちのディディ=ユベルマンのミニマル・アート論そのものの言い回しだ。 

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論考「形象の言説」では、言葉とイメージの関係がプラトンにおける哲学と詭弁の関係に重ね合わされ、一つの定義に尽くされることなく多様な名づけを反復しつづける絵画についての言説のありようが示される。絵画とは何か、ではなく、絵画を見て語ることを可能にするのは何か。マランにとって絵画の記号学は、タブローがさまざまな名でたえず反復されるという言説の運動の多様性にこそあり、図像のあれこれを言葉の単語のように定義していくことにはない。それゆえに、タブローの読解はそのつどタブローの読解の理論でもあり、そのつどの歴史性を孕んで、しかしユートピアとして成立することになる。

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論考「どのようにタブローを読むか」は、文学(言語)への参照の明白な歴史画を避けて、シャンパーニュ、ボーシャン、シャルダン静物画、モンドリアン、クレーの抽象画を通して、絵画がみずからの指示対象を産出するメカニズムを探る。多種多様な社会的コードが絵画に適用されるにしても、それが絵画の基礎というわけではなく、むしろ絵画のほうがそうしたコードを巻き込む。基礎はあくまで描かれたものとその描き方のあいだの類似と差異、反復と対立だ。シャンパーニュの髑髏が虚栄のメッセージを伝えるのも、キリスト教道徳のコードを介してではあれ、それが現実ではありえない直立した正面性で描かれているからだ。

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論考「メダルと版画についての覚え書」では、エトガー・ヴィントを踏まえて、寓意像の二つのありようが区別される。すなわち、一つはすでに言説としてある思想を図解したものであり、もうひとつはいまだ言説になっていない思考を触発するものだ。言うなれば、前者はコンスタティヴなイメージ、後者はパフォーマティヴなイメージだろう。ルネサンスの紋章や寓意画は後者として、そのつどの読解の操作が反復的かつ多重的になされる。マランはそのありようを、フロイト『夢解釈』の判じ絵としての夢のありように重ね合わせる。判じ絵パラダイムにした夢をパラダイムにした寓意像がイメージのパラダイムになる。

ユベール・ダミッシュ『雲の理論』

ユベール・ダミッシュ『雲の理論』松岡新一郎訳、法政大学出版局、2008年(原著1972年)

雲、描かれた雲は、空間でもあれば形象でもあり、象徴にもなれば物質を見せもする。これはたんに多様に使用されるというだけの話ではないし、多彩な機能をもつというだけのことでもない。ある歴史的境位においてこれらの機能が連鎖し作用する、その広がりが、展開が、問題だ。なぜならこの広がりに、思考が、理論が、あるからだ。質料形相論として、さらにはイデア論として、物質から独立した空間に価値を見させるのも、原子論として物質の作用に価値を見させるのも、雲だ。

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絵画において形象は、記号以下のものであると同時に記号以上のものでもある。というのも、他の形象を形象として成立させる構成原理(図に対する地)のはたらきをすると同時に、寓意や象徴として多重的解釈を呼び込みもするからだ。その作用の全貌は、歴史のなかで展開し、歴史を駆動する理論としてあらわれる。線描(ディセーニョ)と彩色(コロリート)の対立という理論が、いかに歴史のなかで絵画の数々を描かせたか、絵画の歴史をつくりあげたか、さらには絵画をそれ以外のものに結びつけたか。

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ブルクハルト、リーグル、ヴェルフリンらが理解した時代の転換に、まさにコレッジョが位置づけられるとしても、それはたんにコレッジョの様式ゆえにでもなければ、図像誌的にでも、寓意的内容ゆえにでもない。それ自体も形象でありながら他の形象の数々(天使や聖人)を統一的空間のなかに組み込む媒体たる雲は、様式、図像誌、寓意をすべて動員しながら、幾何学的遠近法によって生み出された秩序とは別の秩序を構成する。雲によってコレッジョは新しい空間の秩序をつくる。

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天と地が聖と俗としてあらわれ、それらの境界にして媒介に雲がなるのは、超歴史的かつ無時間的な元型にもとづいてのことではなく、そのように語られ描かれてきたという歴史の連鎖においてにほかならない。このときアビラのテレサや十字架のヨハネの言葉は、スルバランらの図像に単純に先立つわけでも典拠になっているのでもない。経験とその表現との区別は曖昧になる。とすれば、ダミッシュはエリアーデ流の象徴分類を斥けるとはいえ、エリアーデの言う祖型の反復という行為がこの歴史的連鎖を形成してはいないだろうか。

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表象はつねに二項関係(表象するものと表象されるもの)とはかぎらず、むしろルネサンス絵画の多くが演劇を手本としたように表象の表象でもありえる。まして人生さえもが芝居と見なされうるのだとしたら、この関係はどれほど多くの層をもつことだろうか。問題は、この表象の多重性、あるいは表象の連鎖が、たんに形象だけでなく構成において、語彙のみならず統辞法に関して、作用するということだ。空間が、秩序が、理論が、生じるのだ。

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夢と芸術の近しさは、機能や意味(願望充足)にではなく、仕事、作業にこそあると、ダミッシュは言う。言語や概念の論理とは異なる論理にしたがって形象をかたちづくる作業を、フロイトは夢に見いだしたが、それと同じ作業をダミッシュは物語の絵画化に見いだす。この洞察の根底にあるのは、知覚と言語の翻訳装置としての人間というフロイトのモデルだろう。意識は知覚という空間的に配列された情報を言語という時間的に配列された情報に翻訳し、夢はその逆の翻訳をする。空間と時間のあいだに無意識がある。

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線遠近法が幾何学の形式にもとづいて空間を構成するのだとすれば、空気遠近法は知覚の形式にもとづいて空間を構成する。初期ルネサンスからマニエリスムへの変化は、この幾何学から知覚への重点移動と言えるだろうか。とはいえ、問題はこの二つの節合だ。幾何学には運動がない。知覚には安定がない。レオナルド・ダ・ヴィンチスフマート技法によって運動と安定を一挙に捉えようとしていたのだろうか。

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レオナルド・ダ・ヴィンチにおいて空気遠近法とスフマート技法がいずれも雲の示すような陰影と色彩の問題に関わっており、知覚の形式に根拠を置いているのだとすれば、その根本の原理は、心理学ではなく光学だろう。ルネサンスにおける光の理論の広がりは、心理学をむしろ宇宙論へと結びつける。雲が、遠近法による空間描写と矛盾することによってかえってその自然の空間を超自然の領域と接続したごとく、光は知覚のメカニズムを介して感覚と世界とを一緒に構造化する。

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ラスキンからワーグナーにいたる、「真実」であるがゆえに完璧なる錯覚として現実を否定する芸術作品の位置づけに対して、ダミッシュは、「アナクロニズムだが」と言いつつ、中国の山水画の理論を対置する。歴史的には当時関係しなかったからこそ、中国の山水画は英国の風景画が想像だにできなかったものを示し、英国の風景画の無意識の前提をあらわにする。枠で閉じずに線で交感する山水画に対して、枠で閉じる風景画は、現実に代わる錯覚としての真実を与える。

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絵画の物質性といったところで、それによって絵画が絵画でなくなるわけでもなければ、絵画が絵画に見えなくなるわけでもない。感覚データや物理的・化学的データになるわけでもない。むしろ、歴史上に展開する効果の広がりにおいて絵画を理解することを可能にすると、ダミッシュは言う。『雲の理論』がセザンヌへの言及によって閉じられることは、ダミッシュとメルロ=ポンティの師弟関係を思い起こさせるが、またこの絵画理解は、仕掛け、装置、機械といったものに通じているとも思う。

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雲や軍馬や裸婦といったものに見えることと、絵画が軍馬や裸婦といったものを描いていることを、心理的投影によって説明するだけで満足すべきではない。心理主義は統一理論を打ち立てるかに見えて、その実、なにも説明していない。そう見えるのはそう見えると思えるから、なのだとすれば、ではなぜそう思うのか、その観念と事物の連合をさらに辿ろう。すると、心理なるものにすべて取り込まれてしまっていたのが、ふたたび反転して、世界のなかを心理が移動していくようになる。ゴンブリッチからダミッシュへの反転だ。

大学で学問をするために——読書案内

① 梅棹忠夫『知的生産の技術』岩波新書[青版F93]、1969年
入門にして古典と言うべき一冊。学問のいちばん根本的な心構えを存分に伝えてくれます。正直ちょっと古い話題もありますが、生物学的に見ると人間の脳は新石器時代から進化していないそうですから、たかだか50年程度で学問の基礎が古びたりはしません。

 

② ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』筑摩書房、2008年/ちくま学芸文庫、2016年
読んでいない本を語る? フランスの精神分析家らしいエスプリの利いた文章で、本の読み方、教養の在り方、他人とのコミュニケーションの取り方などが、縦横に論じられます。ある意味で、大学で学ぶべきことがすべて書かれている一冊。ただし、読んでいない本について語るのが簡単だとは、どこにも書かれていないので注意。

 

③ 山口裕之『コピペと言われないレポートの書き方教室』新曜社、2013年
④ 戸田山和久『論文の教室』(新版)、日本放送出版協会、2012年
とはいえ、①②では実際の論文・レポートの形式や実例などは紹介されていないので、レポートや卒業論文のための実用的なマニュアルとしては、たとえば③④を。類書はほかに無数にあり。美学・美術史・芸術学については、学術論文の書き方(佐藤守弘)もあわせて参照のこと。もっと本格的なものがよければ、千葉雅也『勉強の哲学』文藝春秋、2017年)、佐々木健一『論文ゼミナール』東京大学出版会、2014年)、ウンベルト・エコ『論文作法』(而立書房、1991年)などがあります。

 

⑤ 木原武一編『講義のあとで』(全3巻)、丸善、2009年
⑥ 白川静中村元梅棹忠夫梅原猛私の履歴書——知の越境者』日経ビジネス人文庫、2007年
⑦ 今西錦司福井謙一河合雅雄西澤潤一小柴昌俊私の履歴書——科学の求道者』日経ビジネス人文庫、2007年
そもそも「学問って?」「大学って?」と悩んだときは、先人の経験と知恵を拝聴するに如くはありません。世界的に活躍する学者たちの体験談⑤⑥⑦など、いかがでしょう? だれもがなかなか痛快で破天荒な学問人生を歩んでいます。さらに最新の学問動向が気になったら、ビートたけし『たけしの面白科学者図鑑』(全3巻、新潮文庫、2017年)という対談集もあります。

 

⑧ ジャン=ルイ・ド・ランビュール編『作家の仕事部屋』岩崎力訳、中央公論社 1979年
フランスの作家たちに、どのように仕事をしているのかをインタビューした面白い一冊が⑧。詩人や小説家とともに、文化人類学クロード・レヴィ=ストロース記号学ロラン・バルトへのインタビューがあって、それだけでも必読。とくにレヴィ=ストロースの研究方法は模範的で、見習いたいところです。もっとも、個人的にはミシェル・ビュトールの執筆法が興味深かったりもします。

 

⑨ エルヴィン・パノフスキー「人文学の実践としての美術史」柏木隆夫訳、山崎正和責任編集『近代の藝術論』(世界の名著・続15)、中央公論社、1974年/(中公バックス世界の名著・81)、中央公論社、1979年 
なぜ学問をするのか——それはわたしたちが現実に関心をもつからだ。自然科学と人文学の違い、歴史学と美術史学の違いなど、それぞれの学問分野の特徴をはっきりさせながら、でも諸分野がたがいに支え合って人間の知を形成していることを論じます。
発表されたのは1940年。ナチス政権下のドイツでユダヤ人排斥に猛り狂う路上の群衆にひとり毅然と立ち向かっていった、というエピソードもある美術史家の深い洞察が、⑨にあります。けっしてやさしい内容ではありませんが、なぜ学問をするのかに悩んだとき、何度でも読み返す価値があります。

 

⑩ 坂本賢三『「分ける」こと「わかる」こと』講談社現代新書、1982年/講談社学術文庫、2006年
せっかくなので、すこし視点を変えた書物として、⑩も紹介。博覧強記の哲学者が、古今東西の神話から科学までを博捜しながら、人間の「理解」の構造を剔抉します。お薦めです。

 

番外編 河野与一『新編 学問の曲り角』岩波文庫、2000年
目次に「怠けものの語学勉強法」とあって、おお自分にぴったりだと思って読んでみたら、ラテン語学習がいちばんお手頃だという話に――。「語学の天才」と謳われた哲学者が、あくびやシラミや本のしおりや正誤表など些細なものから、面白可笑しく、でも意外に奥深い思想の歴史へと案内してくれます。大学での学問の読書案内からすれば番外編の書物ですが、とはいえ大学の内でも外でもかわることなく学問は愉しみと喜びなのだと感じさせてくれます。

美学入門——読書案内

① 佐々木健一爆笑問題『人類の希望は美美美——美学』講談社、2008年
漫才師の爆笑問題が日本の学者たちと対話したテレビシリーズから美学の回。テンポよく気楽に読みすすめられますが、理論的に踏み込んで議論しているところもあり、「感性的認識の学」たる美学がなにをどう考察するものなのか、そのさわりを体験できます。

 

② 佐々木健一『美学への招待』中公新書、2004年
近年の美学入門書の定番。身近なトピックと伝統的な美学のテーマとがバランスよく織り成されています。

 

③ 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社新書、2015年
美学の新しい研究動向としては、たとえばこの一冊。気鋭の美学者が視覚障害者の世界を覗いてみると、そこには人間の感覚や身体がもつ驚くべき豊饒な可能性がありました。逆に目の見える人が普段いかに感覚を使わずにすませているか、痛感されます。

 

④ 西村清和『現代アートの哲学』、産業図書、1995年 
現代アートを題材に、美学の主要な主題をしっかりと学べる一冊。具体例と理論的分析があいまって、深く考えることができます。

 

⑤ 篠原資明『差異の王国——美学講義』晃洋書房、2013年
芸術が分かるとは違いが分かること、という平明なようでいて実は奥深い洞察を基盤に、美と芸術の世界に理論的に分け入っていきます。一歩ずつ思索を深めていく過程を経験できる美学講義です。

 

⑥ 新田博衞『気ままにエステチックス』勁草書房、1993年
気ままにどこからでも読めそうな短篇コラムの集成ながら、どの短文も凝縮された本格派の美学論考になっています。ときどき差し挟まる社会寸評もほどよいアクセント。

 

⑦ 淺沼圭司『ゼロからの美学』勁草書房、2004年
いっそう理論的考察に沈潜した美学入門の一書。はじめから本格的に考えたいひとのために。

 

⑧ 中井正一『美学入門』、中公文庫、2010年(初版1951年)
⑨ 九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫、1979年/講談社学術文庫、2003年(初版1930年)
日本語で書かれた美学書としてもっとも有名なのが、おそらくこの二冊。前者は、機械や映像の登場のあと激変する近代社会のゆくすえに眼を凝らし、後者は、日本の歴史のなかで培われて花開いた「粋」という美意識のありようを浮き彫りにした、古典的名著。中井正一九鬼周造も、戦前の京都学派に数え入れられる哲学者だけあって、その論述は鋭敏にして遠大。最初は取っ付きにくいところもあるかもしれませんが、繰り返し読むほどに発見があります。

 

⑩ 渡辺茂『美の起源』共立出版、2016年
19世紀の実験美学以来、美学には自然科学的なアプローチをとるものもあります。昨今は認知科学と連携して多くの成果を挙げています。

 

⑪ 当津武彦編『美の変貌——西洋美学史への展望』世界思想社、1988年
もっとも基本を押さえた美学史の定番中の定番。バランスよくしっかりと美学史を学ぶにはいちばんの書物。とにもかくにも必読。

 

⑫ 酒井紀幸ほか編『美/学』(新版)、大学教育出版、2009年
一トピックごとに見開き一頁でまとめられていて簡便。さっと調べものをしたいときの参考書としても使えます。

 

⑬ 小田部胤久『西洋美学史』東京大学出版会、2009年
美学史の全体を一人の著者が書き下ろしているので、内容に統一性があります。トピック・ベースで、自分でも考えながら美学史をたどりたいひとのために。

 

⑭ 今道友信編『西洋美学のエッセンス』ぺりかん社、1987年
美学史上の重要人物ごとに、その思想を解説した書物。時代順に並んでいるので、通読すれば美学史を学べますが、気になる人物や時代だけを読むのでもよいでしょう。

 

⑮ ウンベルト・エーコ『美の歴史』東洋書林、2005年
西洋における「美」の理論の歴史について、古典からの引用と豊富なカラー図版で綴ったなんとも贅沢な美学入門書。頁を捲るだけでも愉しい書物(ただし残念ながら翻訳の間違いがちらほらあるので要注意)。姉妹篇に『醜の歴史』(東洋書林、2009年)もあり。

 

⑯ カロル・タロン=ユゴン『美学への手引き』上村博訳、白水社文庫クセジュ、2015年
古代における美学の前史から現代における最新動向まで、きわめて巧みに概観されています。もっとも、文庫クセジュ・シリーズはどれもその分野の全体像をすっきり把握できて有益ですが、実は入門書というよりも、一通り学び終えたあとに読むと頭の整理になるという書物がほとんど。はじめの一冊というより、さらに深く学びたいときの二冊目に。

 

⑰ 谷川渥『芸術をめぐる言葉』(新編)、美術出版社、2012年
芸術をめぐる古今東西の名句箴言を縦横無尽に論じた、玉手箱のような書物。美学研究のアイディアの宝庫にして、ちょっとした人名辞典にもなります。 

 

⑱ 佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年
項目数を25 個に厳選した「読む」美学辞典。もともとは教科書のつもりで書かれただけあって、最初から最後まで通読すると、美学の基本がしっかり身につきます。もちろん調べもののために、気になる項目から読むのでもよいでしょう。

 

⑲ 『美学事典』(増補版)竹内敏雄編、弘文堂、1974年
⑳ 『美学のキーワード』W・ヘンクマンほか編、勁草書房、2001年
美学の辞書事典としてはこの二冊。とくに『美学事典』は、40年以上前に刊行されたために最新動向こそ書いてないものの、とても充実した内容で、いまでも重宝します。知らないことがあればまず引いてみましょう。

美学の今世紀——読書案内

 「感性的認識の学」、すなわち知性に対する感性のはたらきを扱う学問として創始された美学は、概念へと規定される以前の思考を問題にするがゆえに、長らく芸術をこそ特権的な考察対象にしてモデルとしてきた。概念以前の思考となれば、言葉によって明晰判明に語られたのとは異なる比喩形象、造形物、身体動作などに注目することは、当然のなりゆきだろう。先頃文庫化されたバウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten, 1714-1762)の『美学』(松尾大訳、講談社学術文庫、二〇一六年〔原著一七五〇〜五八年〕)からして、詩作品への言及が多い。したがって一九世紀前半、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)が美学講義をした頃には、美学がほとんど「芸術哲学」と同義になっていたのも、ゆえなきことではない。

 とはいえ、二一世紀に入ってからの美学の動向は、そのように芸術哲学へと縮小してしまっていた美学を、ふたたび原義通りの「感性論」へと拡大するものだ(周知の通り、「美学」のラテン語名称「Aesthetica」は、「感覚・感性」を意味するギリシア語の「aisthesis」から命名された)。この動向は二〇世紀末から活発化して、バウムガルテンらの古典的著作の読み直しにとどまらず、近年躍進のめざましい認知科学の諸分野との協働/対決を美学にもたらしている。神経美学や進化美学といった動向である。それと同時に、観光が世界最大の産業になりつつあり、あらゆるものがスペクタクルとして美的・感覚的に消費される現代文明のありようも、感性論たる美学にとって重要な考察対象だ。社会美学や政治美学、あるいは環境美学などの動向が興起しているゆえんである。この点では美学は、隣接する美術史・芸術学に加え、表象文化論・メディア論・文化研究・社会学文化人類学といった分野とも連動している。以上の消息は、カロル・タロン=ユゴン(Carole Talon-Hugon, 1959- )の『美学への手引き』(上村博訳、白水社文庫クセジュ、二〇一五年〔原著二〇〇四年〕)が簡潔にして明快な見取り図を与えてくれる。

 他方で、芸術自体がコンセプチュアルなものになっている現在、芸術をモデルにした思考も、狭義のディシプリンとしての美学を越えて広がり、依然として生産的でありつづけている。スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek, 1949- )がヒッチコック映画から次々と洞察を引き出していくさまは、前世紀末に颯爽とあらわれて強い印象を与えたが、今世紀に入ってからも、たとえばより若い哲学者のエリー・デューリング(Elie During, 1972- )やマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980- )らが映画やテレビ・ドラマから強靱な哲学的思弁を立ち上げている。さらには、今日の芸術はしばしば社会的関係性に強い関心を寄せていることから、哲学者の思考実験の材料となるのみならず、社会運動や政治政策の実地試験のごとく機能してもいる。ときには自然科学も、「アート」と名乗ることによって、より自由な研究活動への憧れを満たそうとする。その意味では、美学が芸術哲学から離れていった裏側で、芸術はますます多くの場面で思考のモデルになってきている。「新しい実在論」の書として反響を呼んだガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳、講談社選書メチエ、二〇一八年〔原著二〇一三年〕)が、「芸術の意味」と「テレヴィジョン」の話題で締め括られていることは示唆的だ。編籠や握斧から時計に線描まで、文化人類学的に人間の制作行為のありようをたどったティム・インゴルド(Tim Ingold, 1948- )の『メイキング』(金子遊ほか訳、左右社、二〇一七年〔原著二〇一三年〕)も、実践知としての芸術(と建築)が人類学(や考古学)に親和的であると力強く主張し、この書物自体を芸術作品のごとき生成変化の道具と見なしている。

 現在進行形の美学は、この広がり、この振幅において把握されるべきだろう。つまり、一つには芸術哲学から感性論への回帰がある。それは、かたや認知科学をはじめとした自然科学への接近と、かたやかつてなく「美的なもの」に変貌した現代文明への診断と、この両軸のあいだで展開している。もう一つには芸術をモデルにした思考の拡散がある。哲学も社会も政治も科学さえも、芸術によって思考しはじめたかのようなのだ。

 以下、今世紀の美学への案内図としていくつかの書物を並べよう。案内図であるからには簡便さを旨とすべく、さしあたり今世紀の書物(海外のそれは邦訳のあるもの)に限定する。繰り返し読むべき古典については、たとえば当津武彦編『美の変貌』世界思想社、一九八八年)に当たられたい。

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大学ではじめて美学に触れるひとへ

 

美学について

 「美学」という学問を知ったのは、大学の1年次生だったときのこと。先史の装飾から現代の映像まで、絵画に音楽に文学に建築に、さらには人間社会も生物行動も自然景観も、「感性」を切り口に横断的に考察していく美学は、世界の姿をまるごと眼前に示してくれるように感じられました。美しいものに出会うと、僕らは訳も分からず言葉を失って、代わりに今まで眠っていた全感覚が活発に鋭敏になります。そうして、知らなかった世界を認識し、新しい思考や行動を獲得します。ひょっとしたらこれは人間の生存本能なのかもしれません。美学は、こうした言葉になるまえの感性にもとづく思考と行動を、哲学にも共通する概念分析(「理論」)と、美術史にも比肩する事例分析(「歴史」)とを駆使して把握します。

 たとえば、ルネサンスのヨーロッパ。イタリアを中心に、数々の文学と芸術が花開いたこの近代文明の揺籃期は、明日をも知れぬ動乱期でもありました。ギリシア・ローマからペルシア・エジプトにまで遡る古代文明の再発見、自然学の発展による数々の新発見、アメリカや中国など異文明との接触、国際語であったラテン語の失墜と各国語の興隆、宗教戦争ゆえの社会の分裂――このとき世界はもはや既存の言葉と概念では説明できなくなりました。だからこそルネサンスの人々は、多彩な比喩を繰り出す文学と多様な形象を生み出す芸術でもって、人間と世界、言葉と科学、社会と歴史、政治と文化についての新たな洞察を獲得したようにも思えます。

 僕は今現在、この「人文主義ヒューマニズム)」と呼ばれる動向がもたらしたものを、「世界の複数性」という切り口で、ルネサンス以来のヨーロッパの哲学と芸術に遡って考察しながら、その今日的な展開を現代思想や現代芸術を手がかりに研究しています。

 

大学について

 僕自身がいちばん記憶に残っている大学の授業は、1年次の4月最初、川を雛壇がまるごと流れてくる奇妙な映像を見せられ(実は寺山修司の有名な映画だったのですが)、何やら分からない講義を延々と聞かされたことでしょうか。必死でノートを取ったものの、断片的な単語の羅列にしかならず、途方に暮れました。ところが、卒業も近くなってふとその授業ノートを見直したら、書き連ねられているのはあれもこれも重要なキーワードばかり。なぜこんなに面白い話を、あのときは意味不明としか思えなかったのか――。

 大学の授業とはそんなものらしく、師友に思い出の授業を尋ねても、おおむね難解な授業に溜息をついた話が挙がります。逆に、手に取るように分かった授業は、満足感だけがあって、実際の内容は往々にして忘れています。不思議にも、容易さは忘却に、難解さは記憶に通じているようです。少なくとも、僕のなかにけっして消え去らない何かを刻み込んだのはいつでも、難解なもの、理解しがたいもの、謎めいたものでした。

 大学とは、いまだ解決できていない問題に取り組む専門的な研究機関です。だからどの授業も、ただ解答を憶えさせるためのものではありません。むしろ解決されざる問題を提示し、謎をかけるのです。なかでも僕の担当する美学の講義・演習では、おもにルネサンスから現代にかけての芸術/思想を主題にします。ルネサンスのヨーロッパ人たちは美の本質を「nescio quid」「non so che」「je ne sais quoi」などと呼び、それが現代にも継承されました。「わたしには分からない何か」ということです。言葉で説明できない美の謎から、研ぎ澄ました感覚でもって何を獲得できるか、それは皆さん次第。始めるのに必要なのは、好奇心、注意深さ、寛容さ、だけ。

 

論文について

 論文を書くとは、かつてない新しい知識をつくりだす営為にほかなりません。卒業論文も論文の一つである以上、それは教員も知らない知見をもたらす、印象深いものになります。言ってみれば、卒業論文のテーマは、かならずしも教員の専門そのままではない、皆さん自身の関心によるものだということです。

 美学の卒業論文では、多くの場合、一つの作品や事例、一人の芸術家や思想家に焦点を当てます。現在進行中の卒業論文研究では、ベルクソンドゥルーズといった哲学者、ロスコやダリをはじめとした芸術家、ダダやシュルレアリスムなどの芸術運動が取り上げられています。もちろん美学には、芸術以外にも、認知科学や生物学と結びついた神経美学、政治社会問題を論じる政治美学/社会美学、自然環境を考察する自然美学など、幅広い研究テーマがあります。

 

研究について

 主著となると、『ジョルダーノ・ブルーノの哲学――生の多様性へ』(月曜社、2012年、新プラトン主義協会賞受賞)でしょうか。16世紀に大胆にも新しい人間像と宇宙像を提起して火炙りにされたイタリアの哲学者ブルーノを導きに、近代文明の思想的な始まりを探し求めてルネサンスに遡った研究です。翻って、そのルネサンスから流れ出た現代の想像力や感受性に関する研究としては、『『明るい部屋』の秘密――ロラン・バルトと写真の彼方へ』(共著、青弓社、2008年)、「囚われの身の想像力と解放されたアナクロニズム――イメージ論の問題圏」(『現代思想』第41巻第1号、2013年)、「眼差しなき自然の美学に向けて――イメージ論の問題圏(二)」(『現代思想』第43巻第1号、2015年)などがあります。

 ほかに、これから書くつもりの研究論文の構想を一覧にしてみたら、現時点で数十本、書物5冊ほどの分量になりました。ふと、ミルチャ・エリアーデの日記で読んだパーシー・ラボックの言葉が思い起されます。曰く、「まだ実際には書いていない、これから書きたいと計画している書物や論文は、精神という果樹園のなかで花咲いている唯一の樹だ」。

 

書物について

 座右の書と訊かれたら、17歳の頃から十数年このかたマルクス・アウレーリウス『自省録』(岩波文庫、1956年)ですが、それとは別に、大学生のときの思い出の本があります。レヴィ=ストロース『野生の思考』(みすず書房、1976年)とダミッシュ『パリスの審判』(ありな書房、1998年)です。当時は何度読んでも歯が立ちませんでしたが、それでも挑戦する価値がありました。彼らは僕に謎をかけたのです――言葉や概念になる以前の、感覚や形象や比喩にもとづく神話的思考こそが、芸術の起源にして文明の根源ではないのか、と。

 皆さんも、分かりやすくても詰まらない入門書など捨ておいて、まっすぐ美学の諸問題に踏み込んでください。たとえば淺沼圭司、尼ヶ崎彬、小田部胤久、佐々木健一、篠原資明、多木浩二、谷川渥、中井正一、西村清和、山崎正和ら、日本の美学者の著作から。夏目漱石吾輩は猫である』にも美学者・迷亭が登場するように、日本には海外に劣らぬ重厚な美学研究の蓄積があります。でも入門書も、とあれば、ウンベルト・エーコ『美の歴史』『醜の歴史』(東洋書林、2005年/2009年)を。西洋における美醜の理論/歴史を、豊富な古典引用と潤沢なカラー図版で綴った、ページをめくるだけで愉しい書物です。*1

*1:この散文は『岡山大学文学部教員プロファイル』(2015年12月発行)に掲載されたもの。ここに公開するにあたり、ごくわずかながら文章に手を加えた。

アーミテイジ

  • David Armitage, "What's the Big Idea? Intellectual History and the Longue Durée" (2012)

このところ思想史に「長期持続(Longue durée)」の視点が回帰してきているとして、イギリスの政治思想史家デイヴィッド・アーミテイジが、新たな「観念のなかの歴史(History in Ideas)」を提起したマニフェスト的な論考。ラヴジョイ的な通時態の観念史と、スキナー的な共時態の思想史と、その双方との方法論的差異を明確にしていく手際は鮮やかで、直線的な時系列を飛び越えて伝達され受容される政治的・倫理的・科学的観念――この論文では「civil war」が具体例として分析される――「のなかの」歴史を、「時間横断的な歴史(transtemporal history)」と「系列的な文脈主義(serial contextualism)」の方法論によって発掘していくべきという主張を、明快にまとめている。

観念の具体的な伝達・伝承・受容の物質的にして制度的な基盤を問うことで、かえって複数の時間を横断していく歴史を浮かび上がらせ(その意味で時間の横断は歴史を超えることではない)、そしてまた、その観念が実際に提起され発言された論争的な文脈・状況・戦略を再構築することで、かえってその同時代的文脈を超えて通底している過去(や現在や未来まで)を掘り起こす――このアーミテイジの方法論からは、もちろん、すぐさまフーコーからアガンベンにいたる「考古学」「系譜学」が連想されるところだけれど、でも同時に、この方法論を言説分析から事物や図像の分析へと拡張するなら、アビ・ヴァールブルクからユベール・ダミッシュにいたる美術史にもつながるように思う(アーミテイジ自身はニール・マクレガー『100のモノが語る世界の歴史』に言及している)。「観念」が非実体的にして問題提起的なものなのだとすれば、それはかならずしも「言語」と一対一対応するものではないだろう。ここに、「理論的対象」が思想史に(も)入り込んでくる余地がある。

アロア

  • Eammanuel Alloa, « Changer des sens. Quelques effets du “tournant iconique” » (2010)

イメージ論についての泰斗から新進の論客までを集めた論文集の編集を、このところ矢継ぎ早にいくつも手懸けているエマニュエル・アロア。その見通しの良さが、本人の論考にもよくあらわれている。が、裏を返せば、イメージ論の動向をそれなりに追いかけている人間にとっては、すべておなじみの見取図ということでもある。
ゴットフリート・ベームとW・J・T・ミッチェルによる「図像的転回〔iconic / pictorial turn〕」の提唱以降、イメージ学(Bildwissenschaften)やイメージ研究(image studies)の名のもとに、さまざまなイメージの地政学的・社会的・性差別的な意味や効力が分析されている。けれどもこのとき、イメージを言説制度や社会状況のたんなる「図解」に還元してしまうという、パノフスキー図像学のと似たようなアポリアが生じてもいる。それに対して、ジョージ・スタイナーやハンス=ウルリヒ・グンブレヒトのように、言葉に還元できない剥き出しの現前を主張する動きも出てきている。アロアは、このそれぞれを「アレゴリー」(別のものを語る)と「トートロジー」(同じことを語る)と特徴付けながら(そしてこの対立する二つをロラン・バルトのなかに集約的に見いだしながら)、そのいずれでもない第三のイメージの捉え方として、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンのような徴候的読解を位置づける。
わかりやすく見通しのよい図式だけれども、そのわかりやすさが逆に見落とさせてしまうイメージの一局面こそが、実は重要であるようにも思う。つまり、変換や翻訳の(「イコノクラッシュ」の?)問題。