The Passing +

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

美学入門——読書案内

① 佐々木健一爆笑問題『人類の希望は美美美——美学』講談社、2008年

漫才師の爆笑問題が日本の学者たちと対話したテレビシリーズから美学の回。テンポよく気楽に読みすすめられますが、理論的に踏み込んで議論しているところもあり、「感性的認識の学」たる美学がなにをどう考察するものなのか、そのさわりを体験できます。

 

② 佐々木健一『美学への招待』中公新書、2004年

近年の美学入門書の定番。身近なトピックと伝統的な美学のテーマとがバランスよく織り成されています。

 

③ 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社新書、2015年

美学の新しい研究動向としては、たとえばこの一冊を読んでみましょう。気鋭の美学者が視覚障害者の世界を覗いてみると、そこには人間の感覚や身体がもつ驚くべき豊饒な可能性がありました。逆に目の見える人が普段いかに感覚を使わずにすませているか、痛感されます。

 

④ 西村清和『現代アートの哲学』、産業図書、1995年 

現代アートを題材に、しっかりと美学の主要な主題を学べる一冊。具体例と理論的分析があいまって、深く考えることができます。

 

⑤ 篠原資明『差異の王国——美学講義』晃洋書房、2013年

芸術が分かるとは違いが分かること、という平明なようでいて実は奥深い洞察を基盤に、美と芸術の世界に理論的に分け入っていきます。一歩ずつ思索を深めていく過程を経験できる美学講義です。

 

⑥ 淺沼圭司『ゼロからの美学』勁草書房、2004年

いっそう理論的考察に沈潜した美学入門の一書。はじめから本格的に考えたいひとのために。

 

⑦ 新田博衞『気ままにエステチックス』勁草書房、1993年

気ままにどこからでも読めそうな短篇コラムの集成ながら、どの短文も凝縮された本格派の美学論考になっています。ときどき差し挟まる社会寸評もほどよいアクセント。

 

⑧ 中井正一『美学入門』、中公文庫、2010年(初版1951年)

⑨ 九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫、1979年/講談社学術文庫、2003年(初版1930年)
日本語で書かれた美学書としてもっとも有名なのが、おそらくこの二冊。前者は、機械や映像の登場のあと激変する近代社会のゆくすえに眼を凝らし、後者は、日本の歴史のなかで培われて花開いた「粋」という美意識のありようを浮き彫りにした、古典的名著。中井正一九鬼周造も、戦前の京都学派に数え入れられる哲学者だけあって、その論述は鋭敏にして遠大。最初は取っ付きにくいところもあるかもしれませんが、繰り返し読むほどに発見があります。

 

⑩ 当津武彦編『美の変貌——西洋美学史への展望』世界思想社、1988年

もっとも基本を押さえた美学史の定番中の定番。バランスよくしっかりと美学史を学ぶにはいちばんの書物。とにかく必読の一冊。

 

⑪ 酒井紀幸ほか編『美/学』(新版)、大学教育出版、2009年

一トピックごとに見開き一頁でまとめられていて簡便。さっと調べものをしたいときの参考書としても使えます。

 

⑫ 小田部胤久『西洋美学史』東京大学出版会、2009年

美学史の全体を一人の著者が書き下ろしているので、内容に統一性があります。トピック・ベースで、自分でも考えながら美学史をたどりたいひとのために。

 

⑬ 今道友信編『西洋美学のエッセンス』ぺりかん社、1987年

美学史上の重要人物ごとに、その思想を解説した書物。時代順に並んでいるので、通読すれば美学史を学べますが、気になる人物や時代だけを読むのでもよいでしょう。

 

⑭ ウンベルト・エーコ『美の歴史』東洋書林、2005年

西洋における「美」の理論の歴史について、古典からの引用と豊富なカラー図版で綴ったなんとも贅沢な美学入門書。頁を捲るだけでも愉しい書物(ただし残念ながら翻訳の間違いがちらほらあるので要注意)。姉妹篇に『醜の歴史』(東洋書林、2009年)もあり。

 

⑮ カロル・タロン=ユゴン『美学への手引き』上村博訳、白水社文庫クセジュ、2015年

古代における美学の前史から現代における最新動向まで、きわめて巧みに概観されています。が、文庫クセジュ・シリーズはどれも簡便に全体を概観できて有益ですが、実は入門書というよりも、一通り学び終えたあとに読むと頭の整理になるという書物がほとんど。はじめの一冊というより、さらに深く学びたいときの二冊目に。

 

⑯ 谷川渥『芸術をめぐる言葉』(新編)、美術出版社、2012年

芸術をめぐる古今東西の名句箴言を縦横無尽に論じた、玉手箱のような書物。美学研究のアイディアの宝庫にして、ちょっとした人名辞典にもなります。 

 

⑰ 佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年

項目数を25 個に厳選した「読む」美学辞典。もともとは教科書のつもりで書かれただけあって、最初から最後まで通読すると、美学の基本がしっかり身につきます。もちろん調べもののために、気になる項目から読むのでもよいでしょう。

 

⑱ 『美学事典』(増補版)竹内敏雄編、弘文堂、1974年

⑲ 『美学のキーワード』W・ヘンクマンほか編、勁草書房、2001年

美学の辞書事典としてはこの二冊。とくに『美学事典』は、四十年以上前に刊行されたために最新動向こそ書いてないものの、とても充実した内容で、いまでも重宝します。知らないことがあればまず引いてみましょう。

 

⑳ 今道友信編『講座美学』全5巻、東京大学出版会1984–85年

美学の全体をさらに詳しく概観したいときに便利な叢書。第1 巻『美学の歴史』/第2 巻『美学の主題』/第3 巻『美学の方法』/第4 巻『美学の諸相』/第5 巻『美学の将来』

美学の今世紀——読書案内

 「感性的認識の学」、すなわち知性に対する感性のはたらきを扱う学問として創始された美学は、概念へと規定される以前の思考を問題にするがゆえに、長らく芸術をこそ特権的な考察対象にしてモデルとしてきた。概念以前の思考となれば、言葉によって明晰判明に語られたのとは異なる比喩形象、造形物、身体動作などに注目することは、当然のなりゆきだろう。先頃文庫化されたバウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten, 1714-1762)の『美学』(松尾大訳、講談社学術文庫、二〇一六年〔原著一七五〇〜五八年〕)からして、詩作品への言及が多い。したがって一九世紀前半、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)が美学講義をした頃には、美学がほとんど「芸術哲学」と同義になっていたのも、ゆえなきことではない。

 とはいえ、二一世紀に入ってからの美学の動向は、そのように芸術哲学へと縮小してしまっていた美学を、ふたたび原義通りの「感性論」へと拡大するものだ(周知の通り、「美学」のラテン語名称「Aesthetica」は、「感覚・感性」を意味するギリシア語の「aisthesis」から命名された)。この動向は二〇世紀末から活発化して、バウムガルテンらの古典的著作の読み直しにとどまらず、近年躍進のめざましい認知科学の諸分野との協働/対決を美学にもたらしている。神経美学や進化美学といった動向である。それと同時に、観光が世界最大の産業になりつつあり、あらゆるものがスペクタクルとして美的・感覚的に消費される現代文明のありようも、感性論たる美学にとって重要な考察対象だ。社会美学や政治美学、あるいは環境美学などの動向が興起しているゆえんである。この点では美学は、隣接する美術史・芸術学に加え、表象文化論・メディア論・文化研究・社会学文化人類学といった分野とも連動している。以上の消息は、カロル・タロン=ユゴン(Carole Talon-Hugon, 1959- )の『美学への手引き』(上村博訳、白水社文庫クセジュ、二〇一五年〔原著二〇〇四年〕)が簡潔にして明快な見取り図を与えてくれる。

 他方で、芸術自体がコンセプチュアルなものになっている現在、芸術をモデルにした思考も、狭義のディシプリンとしての美学を越えて広がり、依然として生産的でありつづけている。スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek, 1949- )がヒッチコック映画から次々と洞察を引き出していくさまは、前世紀末に颯爽とあらわれて強い印象を与えたが、今世紀に入ってからも、たとえばより若い哲学者のエリー・デューリング(Elie During, 1972- )やマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980- )らが映画やテレビ・ドラマから強靱な哲学的思弁を立ち上げている。さらには、今日の芸術はしばしば社会的関係性に強い関心を寄せていることから、哲学者の思考実験の材料となるのみならず、社会運動や政治政策の実地試験のごとく機能してもいる。ときには自然科学も、「アート」と名乗ることによって、より自由な研究活動への憧れを満たそうとする。その意味では、美学が芸術哲学から離れていった裏側で、芸術はますます多くの場面で思考のモデルになってきている。「新しい実在論」の書として反響を呼んだガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳、講談社選書メチエ、二〇一八年〔原著二〇一三年〕)が、「芸術の意味」と「テレヴィジョン」の話題で締め括られていることは示唆的だ。編籠や握斧から時計に線描まで、文化人類学的に人間の制作行為のありようをたどったティム・インゴルド(Tim Ingold, 1948- )の『メイキング』(金子遊ほか訳、左右社、二〇一七年〔原著二〇一三年〕)も、実践知としての芸術(と建築)が人類学(や考古学)に親和的であると力強く主張し、この書物自体を芸術作品のごとき生成変化の道具と見なしている。

 現在進行形の美学は、この広がり、この振幅において把握されるべきだろう。つまり、一つには芸術哲学から感性論への回帰がある。それは、かたや認知科学をはじめとした自然科学への接近と、かたやかつてなく「美的なもの」に変貌した現代文明への診断と、この両軸のあいだで展開している。もう一つには芸術をモデルにした思考の拡散がある。哲学も社会も政治も科学さえも、芸術によって思考しはじめたかのようなのだ。

 以下、今世紀の美学への案内図としていくつかの書物を並べよう。案内図であるからには簡便さを旨とすべく、さしあたり今世紀の書物(海外のそれは邦訳のあるもの)に限定する。繰り返し読むべき古典については、たとえば当津武彦編『美の変貌』世界思想社、一九八八年)に当たられたい。

続きを読む

大学ではじめて美学に触れるひとへ

 

美学について

 「美学」という学問を知ったのは、大学の1年次生だったときのこと。先史の装飾から現代の映像まで、絵画に音楽に文学に建築に、さらには人間社会も生物行動も自然景観も、「感性」を切り口に横断的に考察していく美学は、世界の姿をまるごと眼前に示してくれるように感じられました。美しいものに出会うと、僕らは訳も分からず言葉を失って、代わりに今まで眠っていた全感覚が活発に鋭敏になります。そうして、知らなかった世界を認識し、新しい思考や行動を獲得します。ひょっとしたらこれは人間の生存本能なのかもしれません。美学は、こうした言葉になるまえの感性にもとづく思考と行動を、哲学にも共通する概念分析(「理論」)と、美術史にも比肩する事例分析(「歴史」)とを駆使して把握します。

 たとえば、ルネサンスのヨーロッパ。イタリアを中心に、数々の文学と芸術が花開いたこの近代文明の揺籃期は、明日をも知れぬ動乱期でもありました。ギリシア・ローマからペルシア・エジプトにまで遡る古代文明の再発見、自然学の発展による数々の新発見、アメリカや中国など異文明との接触、国際語であったラテン語の失墜と各国語の興隆、宗教戦争ゆえの社会の分裂――このとき世界はもはや既存の言葉と概念では説明できなくなりました。だからこそルネサンスの人々は、多彩な比喩を繰り出す文学と多様な形象を生み出す芸術でもって、人間と世界、言葉と科学、社会と歴史、政治と文化についての新たな洞察を獲得したようにも思えます。

 僕は今現在、この「人文主義ヒューマニズム)」と呼ばれる動向がもたらしたものを、「世界の複数性」という切り口で、ルネサンス以来のヨーロッパの哲学と芸術に遡って考察しながら、その今日的な展開を現代思想や現代芸術を手がかりに研究しています。

 

大学について

 僕自身がいちばん記憶に残っている大学の授業は、1年次の4月最初、川を雛壇がまるごと流れてくる奇妙な映像を見せられ(実は寺山修司の有名な映画だったのですが)、何やら分からない講義を延々と聞かされたことでしょうか。必死でノートを取ったものの、断片的な単語の羅列にしかならず、途方に暮れました。ところが、卒業も近くなってふとその授業ノートを見直したら、書き連ねられているのはあれもこれも重要なキーワードばかり。なぜこんなに面白い話を、あのときは意味不明としか思えなかったのか――。

 大学の授業とはそんなものらしく、師友に思い出の授業を尋ねても、おおむね難解な授業に溜息をついた話が挙がります。逆に、手に取るように分かった授業は、満足感だけがあって、実際の内容は往々にして忘れています。不思議にも、容易さは忘却に、難解さは記憶に通じているようです。少なくとも、僕のなかにけっして消え去らない何かを刻み込んだのはいつでも、難解なもの、理解しがたいもの、謎めいたものでした。

 大学とは、いまだ解決できていない問題に取り組む専門的な研究機関です。だからどの授業も、ただ解答を憶えさせるためのものではありません。むしろ解決されざる問題を提示し、謎をかけるのです。なかでも僕の担当する美学の講義・演習では、おもにルネサンスから現代にかけての芸術/思想を主題にします。ルネサンスのヨーロッパ人たちは美の本質を「nescio quid」「non so che」「je ne sais quoi」などと呼び、それが現代にも継承されました。「わたしには分からない何か」ということです。言葉で説明できない美の謎から、研ぎ澄ました感覚でもって何を獲得できるか、それは皆さん次第。始めるのに必要なのは、好奇心、注意深さ、寛容さ、だけ。

 

論文について

 論文を書くとは、かつてない新しい知識をつくりだす営為にほかなりません。卒業論文も論文の一つである以上、それは教員も知らない知見をもたらす、印象深いものになります。言ってみれば、卒業論文のテーマは、かならずしも教員の専門そのままではない、皆さん自身の関心によるものだということです。

 美学の卒業論文では、多くの場合、一つの作品や事例、一人の芸術家や思想家に焦点を当てます。現在進行中の卒業論文研究では、ベルクソンドゥルーズといった哲学者、ロスコやダリをはじめとした芸術家、ダダやシュルレアリスムなどの芸術運動が取り上げられています。もちろん美学には、芸術以外にも、認知科学や生物学と結びついた神経美学、政治社会問題を論じる政治美学/社会美学、自然環境を考察する自然美学など、幅広い研究テーマがあります。

 

研究について

 主著となると、『ジョルダーノ・ブルーノの哲学――生の多様性へ』(月曜社、2012年、新プラトン主義協会賞受賞)でしょうか。16世紀に大胆にも新しい人間像と宇宙像を提起して火炙りにされたイタリアの哲学者ブルーノを導きに、近代文明の思想的な始まりを探し求めてルネサンスに遡った研究です。翻って、そのルネサンスから流れ出た現代の想像力や感受性に関する研究としては、『『明るい部屋』の秘密――ロラン・バルトと写真の彼方へ』(共著、青弓社、2008年)、「囚われの身の想像力と解放されたアナクロニズム――イメージ論の問題圏」(『現代思想』第41巻第1号、2013年)、「眼差しなき自然の美学に向けて――イメージ論の問題圏(二)」(『現代思想』第43巻第1号、2015年)などがあります。

 ほかに、これから書くつもりの研究論文の構想を一覧にしてみたら、現時点で数十本、書物5冊ほどの分量になりました。ふと、ミルチャ・エリアーデの日記で読んだパーシー・ラボックの言葉が思い起されます。曰く、「まだ実際には書いていない、これから書きたいと計画している書物や論文は、精神という果樹園のなかで花咲いている唯一の樹だ」。

 

書物について

 座右の書と訊かれたら、17歳の頃から十数年このかたマルクス・アウレーリウス『自省録』(岩波文庫、1956年)ですが、それとは別に、大学生のときの思い出の本があります。レヴィ=ストロース『野生の思考』(みすず書房、1976年)とダミッシュ『パリスの審判』(ありな書房、1998年)です。当時は何度読んでも歯が立ちませんでしたが、それでも挑戦する価値がありました。彼らは僕に謎をかけたのです――言葉や概念になる以前の、感覚や形象や比喩にもとづく神話的思考こそが、芸術の起源にして文明の根源ではないのか、と。

 皆さんも、分かりやすくても詰まらない入門書など捨ておいて、まっすぐ美学の諸問題に踏み込んでください。たとえば淺沼圭司、尼ヶ崎彬、小田部胤久、佐々木健一、篠原資明、多木浩二、谷川渥、中井正一、西村清和、山崎正和ら、日本の美学者の著作から。夏目漱石吾輩は猫である』にも美学者・迷亭が登場するように、日本には海外に劣らぬ重厚な美学研究の蓄積があります。でも入門書も、とあれば、ウンベルト・エーコ『美の歴史』『醜の歴史』(東洋書林、2005年/2009年)を。西洋における美醜の理論/歴史を、豊富な古典引用と潤沢なカラー図版で綴った、ページをめくるだけで愉しい書物です。*1

*1:この散文は『岡山大学文学部教員プロファイル』(2015年12月発行)に掲載されたもの。ここに公開するにあたり、ごくわずかながら文章に手を加えた。

2019年4月の新刊

・デジデリウス・エラスムス『対話集』金子晴勇訳、知泉書館、2019年
ライプニッツモナドジー 他二篇』谷川多佳子ほか訳、岩波文庫、2019年
フリードリヒ・ニーチェ『偶像の黄昏』村井則夫訳、河出文庫、2019年
ジャック・ラカン『アンコール』藤田博史ほか訳、講談社選書メチエ、2019年
アントニオ・ネグリデカルト・ポリティコ――政治的存在論について』中村勝己/津崎良典訳、青土社、2019年
・古田徹也『ウィトゲンシュタイン——論理哲学論考』(シリーズ世界の思想)、角川選書、2019年
・佐野泰之『身体の黒魔術、言語の白魔術——メルロ=ポンティにおける言語と実存』、ナカニシヤ出版、2019年
酒井健バタイユと芸術——アルテラシオンの思想』、青土社、2019年
・門前斐紀『木村素衞「表現愛」の人間学——「表現」「形成」「作ること」の身体論』、ミネルヴァ書房、2019年
中島隆博ほか編『ことばを紡ぐための哲学』、白水社、2019年
・松村圭一郎ほか編『文化人類学の思考法』、世界思想社、2019年
・坂本泰宏ほか編『イメージ学の現在——ヴァールブルクから神経系イメージ学へ』、東京大学出版会、2019年
・井口壽乃編『視覚文化とデザイン——メディア、リソース、アーカイヴズ』、水声社、2019年
・シルヴィア・ロンケイ『ピエロ・デッラ・フランチェスカ《キリストの鞭打ち》の謎を解く』、池上公平監訳、白水社、2019年
・キャロリン・パーネル『見ることは信じることではない——啓蒙主義の驚くべき感覚世界』、白水社、2019年

アーミテイジ

  • David Armitage, "What's the Big Idea? Intellectual History and the Longue Durée" (2012)

このところ思想史に「長期持続(Longue durée)」の視点が回帰してきているとして、イギリスの政治思想史家デイヴィッド・アーミテイジが、新たな「観念のなかの歴史(History in Ideas)」を提起したマニフェスト的な論考。ラヴジョイ的な通時態の観念史と、スキナー的な共時態の思想史と、その双方との方法論的差異を明確にしていく手際は鮮やかで、直線的な時系列を飛び越えて伝達され受容される政治的・倫理的・科学的観念――この論文では「civil war」が具体例として分析される――「のなかの」歴史を、「時間横断的な歴史(transtemporal history)」と「系列的な文脈主義(serial contextualism)」の方法論によって発掘していくべきという主張を、明快にまとめている。

観念の具体的な伝達・伝承・受容の物質的にして制度的な基盤を問うことで、かえって複数の時間を横断していく歴史を浮かび上がらせ(その意味で時間の横断は歴史を超えることではない)、そしてまた、その観念が実際に提起され発言された論争的な文脈・状況・戦略を再構築することで、かえってその同時代的文脈を超えて通底している過去(や現在や未来まで)を掘り起こす――このアーミテイジの方法論からは、もちろん、すぐさまフーコーからアガンベンにいたる「考古学」「系譜学」が連想されるところだけれど、でも同時に、この方法論を言説分析から事物や図像の分析へと拡張するなら、アビ・ヴァールブルクからユベール・ダミッシュにいたる美術史にもつながるように思う(アーミテイジ自身はニール・マクレガー『100のモノが語る世界の歴史』に言及している)。「観念」が非実体的にして問題提起的なものなのだとすれば、それはかならずしも「言語」と一対一対応するものではないだろう。ここに、「理論的対象」が思想史に(も)入り込んでくる余地がある。

アロア

  • Eammanuel Alloa, « Changer des sens. Quelques effets du “tournant iconique” » (2010)

イメージ論についての泰斗から新進の論客までを集めた論文集の編集を、このところ矢継ぎ早にいくつも手懸けているエマニュエル・アロア。その見通しの良さが、本人の論考にもよくあらわれている。が、裏を返せば、イメージ論の動向をそれなりに追いかけている人間にとっては、すべておなじみの見取図ということでもある。
ゴットフリート・ベームとW・J・T・ミッチェルによる「図像的転回〔iconic / pictorial turn〕」の提唱以降、イメージ学(Bildwissenschaften)やイメージ研究(image studies)の名のもとに、さまざまなイメージの地政学的・社会的・性差別的な意味や効力が分析されている。けれどもこのとき、イメージを言説制度や社会状況のたんなる「図解」に還元してしまうという、パノフスキー図像学のと似たようなアポリアが生じてもいる。それに対して、ジョージ・スタイナーやハンス=ウルリヒ・グンブレヒトのように、言葉に還元できない剥き出しの現前を主張する動きも出てきている。アロアは、このそれぞれを「アレゴリー」(別のものを語る)と「トートロジー」(同じことを語る)と特徴付けながら(そしてこの対立する二つをロラン・バルトのなかに集約的に見いだしながら)、そのいずれでもない第三のイメージの捉え方として、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンのような徴候的読解を位置づける。
わかりやすく見通しのよい図式だけれども、そのわかりやすさが逆に見落とさせてしまうイメージの一局面こそが、実は重要であるようにも思う。つまり、変換や翻訳の(「イコノクラッシュ」の?)問題。

セール

もはや何度目の再読だったか忘れてしまったものの、かなり久々にミシェル・セールとブルーノ・ラトゥールとの対談『解明』を手に取る。セール哲学への最良の手引きになっている書物だけれど(最後の客観的道徳としての普遍的な準客体の構成はまだこの時点では論じ切れていないきらいはあるが)、ちょうどラトゥールが『わたしたちはけっして近代的ではなかった』(邦題『虚構の「近代」』)を世に問うた頃の対談だけあって、重なる話題も多く、あわせて読むとラトゥールがどれほど忠実にセール哲学のプログラムを引き継ごうとしているのかがよく見える。

と同時に、再読してみるとセールとラトゥールの違いもあらためて感じられてくる。人文科学と自然科学――文化と自然――との分断を架橋していく際に、ラトゥールがどちらかといえば現代の政治的・制度的局面により介入していこうとしているのに対して、セールが引き受けようとしているのはむしろ「古典〔les humanités〕」であって、しかも人類の受苦の記憶としての古典である。人類史にパラジットのごとく遍在する暴力を抑えるために、逆に受苦の記憶としての古典の「ルネサンス」に向き合う、古典主義者にして人文主義者セール。そのアナクロニックな時間モデルも含めて、意外にもセールの哲学が――ベンヤミンフロイトなどよりもよほど――アビ・ヴァールブルクの美術史と重なって見えてくる。

もちろん、セールが積極的にマルセル・モースやジョルジュ・デュメジルやルネ・ジラールやフィリップ・デスコラらに応答していることに鑑みれば、こうした人類史的な展望での一致はさほど驚くべきことでもないのかもしれない。ブルーメンベルクやアドルノなども含めて、いちど本腰を入れて考えてみるべき問題のようにも思える。

カントーロヴィチ(ブーロー)

先頃『皇帝フリードリヒ二世』も翻訳されたエルンスト・カントーロヴィチの伝記を、アラン・ブーローが著したもの。当時の小説の筋などとの類比も交えてカントーロヴィチの歩みを大胆に再構成しているけれど、なかでもとくに大胆で(理論的な関心からすれば)示唆的なのは、カントロヴィッチの語る「神学」(神話、虚構、テーマ)をミシェル・フーコーの「言表」に近づけるところだろうか。神学の言葉が、現実のかたわらでもうひとつ別の現実を構成し、人々の思考と行動を導き、そうして現実それ自体を変形してしまう。
これをカントーロヴィチは「政治神学」と呼んでいるが、ブーローによれば、カール・シュミットら世俗化論者の言う「政治神学」とは話が逆になっているという。つまり、世俗化論では、西洋中世のキリスト教神学の諸概念が近代の政治の原型を与えた(虚構が現実に権力を与えた)という話になるものの、対するカントーロヴィチでは、政治が神学にしたがわざるをえなかった(現実の権力を虚構が奪った)という話になる。であれば、ここでカントーロヴィチをフーコーに加えてハンス・ブルーメンベルクにも近づけたくなるが、ともあれ、このところジョルジョ・アガンベンがおしすすめている政治神学の系譜学の射程も、こうした政治神学のヴァリエーションに注意して見定めなければならないように思う。

プレヴォー

  • Bertrand Prévost, « Direction-dimention » (2013)
  • Id., « Des putti et de leurs guirlandes » (à paraître)
  • Id., « Cosmique cosmétique » (2012)
  • Id., « L’ars plumaria en Amazonie » (2011)

 ひきつづいてベルトラン・プレヴォーの「イメージ人類学」的な装飾論。西洋美術でやたらと装飾的に描き込まれるプットーの形象を、実際に装飾として考えて、そこからゴンブリッチ幾何学的秩序に還元してしまった装飾論を刷新していく手際は鮮やか。さらに装身具、テキスタイル、入れ墨、はては人間を越えて動物の毛皮の文様まで、考察を広げていく。
 ゴットフリート・ゼンパーの再評価も面白いところだが、議論の要はここでもジル・ドゥルーズであり、そして装飾の「エレガンス」を「非人称化」に見たゲオルク・ジンメルである。世界の秩序とのアナロジーとしての装飾ではなく、自己の身体が投影された第二の身体としての装飾でもなく、身体の非人称化と超個体化によって「世界になること」としての装飾。「エレガンス」というカテゴリーの歴史性を問わないところはやや疑問が残るものの、なぜ装飾論が動物論につながるのかがよくわかる。

『現代の哲学的人間学』、ロータッカー

「哲学的人間学」(あるいは自然人類学や文化人類学と並べて「哲学人類学」と訳してもいいかもしれない)は、日本では1970年代あたりに一挙に翻訳されて研究書も書かれたものの、その後ほとんど途絶えてしまったように見える。記念碑的な『哲学の歴史』全12巻(中央公論新社)でも、まったく言及されていない。
とはいえ、このところ生態心理学のインパクトから「個体と環境の相互作用」や「人間と動物との境界」というユクスキュル的な主題が回帰してきているのを見るにつけ、ユクスキュルの発想を最大限に受け止めたヘルムート・プレスナーやアルノルト・ゲーレンらの哲学的人間学の成果は再吟味されてしかるべきようにも思う。マックス・シェーラーのように人間のみが「精神」に与るとするのでもなく、エルンスト・カッシーラーのように人間のみが「象徴」を有するとするのでもなしに、個体と環境の相互作用からいかに人間を理解できるだろうか。
おそらくは、このとき「イメージ」が問題になるからこそ、ベルトラン・プレヴォーやエマヌエーレ・コッチャが美学的観点からアドルフ・ポルトマン――哲学的人間学のもっとも近くにいた動物学者――の読み直しに着手しているのだろう。