The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

沼野雄司『エドガー・ヴァレーズ』

沼野雄司『エドガー・ヴァレーズ』、春秋社、2019年

 

かつて初めて聴いたエドガー・ヴァレーズの《イオニザシオン》はまったくの支離滅裂な音の羅列に思えて困惑したが、あるときそれが自在に音の躍動する一つの空間として立ち現れて、爾来、ヴァレーズの音楽に魅了されている。このヴァレーズの伝記はウェブ連載されていたときから毎回楽しみに読んでいて、書物として上梓されたときもすぐさま読んだのだった。

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ヴァレーズが若き日に夢見たことを、テクノロジーがまるで後を追うようにして可能にして、晩年に実現してしまうさまは、あらためて芸術の歴史性の不思議さを感得させる。予言者としての前衛芸術家というにはあたらない。みずから予言を成就してしまうのだから。それはヴァレーズがなにより自身の直観に忠実でありつづけたことの賜物だろう。とはいえ、音楽における空間性を投射のメカニズムで操作するというヴァレーズの試みは、全面的にテクノロジーの進歩に由来するというよりも、むしろルネサンスバロック古楽への造詣の深さにつながっている。

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ヴァレーズの生涯を追いかけていると、その姿が思いがけずマルセル・デュシャンに重なる。ヴァレーズ1883-1965、デュシャン1887-1968と、ほぼ同世代で、同じ第一次世界大戦中の1915年にフランスからアメリカに渡っており、作品数はごく少ないながらもコンセプトが革新的で、なにより人々を魅了する人柄もあって、芸術界の空気と土壌を変えてしまった。同じく機械やテクノロジーに関心を向けているが、それはそのまま言語以前の原始的なもの、プリミティヴなものへの関心と同一である。実際にヴァレーズとデュシャンの交友範囲は重なっている。

 

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』、ミシマ社、2017年

 

社会的紐帯としての感情の共感作用を起点として、市場(交換)と国家(再配分)のあいだに社会(贈与)の空間を開くことが試みられる。もっとも、援助の実践に示されるごとく、市場と国家と社会は截然と区別されるわけではない。これらの空間の存立基盤は、そのいずれにも属しうる不分明な行為にしかないがゆえに、境界はつねにゆらぐ。一人の人間の一つの同じ行為が、そのまま交換にも贈与にも再配分にもなりうる。交換と贈与と再配分とのあいだにあるのは、行為の差異というよりも、そして意図の差異というだけでなく、むしろ視点あるいは解釈の差異だろう。市場と国家と社会の境界線のゆらぎは、個々の行為の水準で見れば、複数の視点のあいだの闘争であるのかもしれない。

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それらのあいだの調和こそが目指されるべき、と本書では言われる。すべてを贈与でもって取って代えることが目指されるわけではない。調和とは何だろうか。交換と再配分と贈与のあいだの調和は、人間同士の均衡でもあり、そして公平の実現でもある。行為の動因になるうしろめたさの感情は、不均衡を感覚することから生じて、そうして公平を希求し、均衡を回復させて調和を目指す。かつてロジェ・カイヨワが、前近代の地獄の宗教的想念から近代のマスメディアの事件ニュースまでに一貫して、公平への希求、正義への願望を看て取ったごとく、この世の不均衡に対して人間は無感覚ではいられないのだろう。調和という美学的な問題は、公平という倫理的ないし政治的な問題と切り離せず、その蝶番が感情だ。

中井正一『日本の美』

中井正一『日本の美』、中公文庫、2019年(初版1952年)[併録の『近代美の研究』の初版は1947年]

 

「思想的危機における芸術ならびにその動向」(1932)では、文化の機械化と大衆化が思想の危機をもたらしたという通説が、近代における学問の専門化と職業化――「精神的機械化」――からの帰結として読み替えられる。真理は宗教から抽象されて、それ自体で自律した絶対的かつ純粋なものになったが、それとともに全体性を失って、専門分化してしまった。「科」学の成立だ。芸術もそれと連動して、普遍的な真理を模倣するものから多様な個性を創造するものになり、その形成基盤も技術から天才に移る。学問と芸術におけるこの全体性から多様性への変化を、中井は危機ではなくむしろ協働の新たな可能性の基盤と見なす。
  テオドール・リップスの感情移入説で完成された個人主義的な美学の教説を、中井は「組織感」「事実感」「速度感」の三つの新しい集団的な美感によって解体し、再編する。個人の身心の調和による快感は、集団の構成の調和による組織感になる。個人の記憶による事実の把握は、記録装置によって、集団で共有可能になるばかりか、歴史のあらゆる細部にまで拡張される。個人の構想による未来の展望と冒険は、たんなるスリルであることを超えて、集団による企画という厳密さと明晰さをもって、過去の重圧を速度に変えて現実を乗り越えていく。利潤からなる集団が利潤追求を克服する道を、中井はここに見ているのか。

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「現代における美の諸性格」(1934)によると、いわゆるコペルニクス的転回によって成立した近代的主体は、その心理主義的解釈がしだいに克服されていくにつれて、個人主義的主観性から集団主義的主体性へと転換していく。この主体性の感性的基盤となる存在感が自然概念としてあらわれると、中井は見なしつつ、ジョルダーノ・ブルーノの生産と発展を示す自然概念に触れる。ブルーノ自身は「能産的自然/所産的自然」という対概念をはっきりともちいているわけではないにせよ、天動説から地動説への転換が宇宙論と認識論にまたがるものであるように、自然概念の変化も存在への感受性としての世界像と人間像にまたがる。
 現代文明の根底にある存在(実存)と世界への感受性を、中井は表現主義、新心理主義、未来主義、構成主義、大衆文化のうちに次々と探っていく。個別の実存と全体の秩序との節合が問題なのだが、前衛芸術と並んで大衆文化にもその抑圧された願望と秘められた可能性を見ている。とはいえ、大衆文化もそのままでは利潤追求にとらわれている。個別と全体の節合が、数学的な反映論にとどまらずに、生産と事実の水準で打ち立てられるとすれば、当然のこと歴史性が要になる。

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「近代美と世界観」(1947)によれば、ギリシアの運命悲劇やルネサンスの性格悲劇といったそのときどきの美の登場の根底に、時代の転換、文化の裂け目があるという。日本でも「さやけさ」「さび」「すき」「いき」へとしだいに美が移っていったごとく、文化の裂け目で古いものを脱け出ていく「脱落」の動きこそが美を生む。この中井の歴史観は、さらに古典主義・自然主義・現実主義から次々に脱け出ようとあがいたロマン主義の描写にはっきりとあらわれているように、きわめて弁証法的だ。文化の裂け目で危機の瞬間に閃く美は、まさに歴史経験でもある。
 映画のもたらした新しい美感は、中井によれば、「現実がもっとも神秘的なものであるという感覚」だという。技術の発達にもとづく「事実感」「組織感」「歴史感」「生産感」を集約したこの感覚、この新しい美が、個人主義から集団主義への転換期にある文化の裂け目、現実世界の歪みを認識させる。このとき転換しつつある世界観は、subjectumを「基体」とした古代の世界観から「主観」とした近代の世界観への転換のさらにその先にあって、まさにsub-jectumたる根底に横たわるアトラス的主体をその土台とする。

中井正一『美学入門』

中井正一『美学入門』、中公文庫、2010年(初版1951年)

 

中井正一ヴァルター・ベンヤミンとの親近性は、誰しもすぐさま気づかずにはいられない――脱落の美とアウラの凋落、コプラの欠如とショック作用、基礎射影と視覚的無意識、謬りを踏みしめての現在と今というとき、委員会とほぐれた大衆、さらには救済における大乗仏教ユダヤ神秘主義まで。両者の類似と差異を羅列するのではなく、むしろ同時代の同問題をまえにした変換関係として並置するなら、何が見えてくるだろうか。

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中井によれば、自然の美は人間を社会の不自由から解放し、技術は人間と自然ないし人間と人間のあいだに調和を実現し、芸術の美は願望と希求において可能性を切り拓く。フリードリヒ・シラーが遊戯という観点から美のもつ解放・調和・願望の効力を理論化したように、中井は脱落、脱出、脱走という観点からそれを理論化する。遊戯から脱落への観点の移動は、美を歴史化するだろう。とはいえ、それは進歩や発展ではない。中井ははっきりと本質主義を斥けている。美が本質や理念よりも脱落の歴史的運動であるとは、上野俊哉の示唆するとおり、むしろ離散とさえ見なせるかもしれないものだ。

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人間の生存のありようにしたがって空間の感覚は変容し、その変化にあわせて空間が建築等によって形成される。アロイス・リーグルとヴィルヘルム・ヴォリンガーを参照した中井の空間論は、領土論にも通じている。音楽をパラダイムとする時間論も同様だ。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの言うように、生存のテリトリーの形成として芸術ははたらく。このとき、光に重い軽いがあるわけではないし、色に温かい冷たいが、音に高い低いがあるわけでもなく、それらを感受し表現する精神――近代的主体性というよりもむしろ乱反射する射影の宮殿のごとき精神――の問題なのだと、中井は言う。こちらはクロード・レヴィ=ストロースの野生の思考を思い起こさせる指摘だ。

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音楽は予期と切断によってリズムを形成する。時間の認識が音楽としてリズムを生むが、音楽が時間をリズムとして認識させもする。このとき意識が、個人の内面性というよりも、時間の射影構造にほかならないとすれば、ここにあるのはリズムにリズムが共鳴する現象のみと言えるか。それは数学と歴史の両極のあいだにある実存の水準で生じつつ、自然から文化にまで広がっている。もし装飾が、造形として、舞踊として、また音楽として、テリトリーを形成するのなら、中井がヴィクトール・ユゴーレ・ミゼラブル』から引くごとく、いかなる希望も失われたところに歌だけが残るとは、リズムが同時に共鳴でも領土でもあることを示しているのかもしれない。

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芸術における模倣論と表現論という対を脱け出る道は、無意識(超現実)と存在(実存)の二つに通じる。無意識あるいは超現実に関して、中井は、あるいは九鬼周造から知ったのだろうか、テオドール・ジェリコーエプソンの競馬》を論じている。エドワード・マイブリッジの連続写真によって論争の渦中に投げ込まれてしまったジェリコーの馬の描写を。

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「芸術は自然を模倣する」(アリストテレス)から「自然は芸術を模倣する」(ワイルド)への転換は、古代と近代の芸術観念における人間と自然の関係性の変化を示すのみならず、思考の立脚点が形而上学から認識論へと転回したことに連動しているだろう。では、そこからさらに現代への展開は、いわゆる言語論的転回に連動しているだろうか。これを、京都学派がいちはやく技術・身体・言語を問題にしていたとして、ただ先駆的と評価するばかりにせず、転回なるものの地理的時差の構造と考えあわせてみると、どうなるか。終焉と転回ばかりが増えていく現在を、時差の構造から把握すると、どうなるだろうか。

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プラトンの魂にしてもカントの主観性にしても、人間の能力の分類と社会の階級の区分とが相同性を示すとして、だがそれは二項間の反映や影響というよりも、心理と社会、身体に宇宙、形而上学から言語まで、構造がたえず場所を変えながら翻訳されて、繰り返し反復されるところに成立しているのではないか。翻訳され反復されて相同性が形成されながら、そのつどの微細なずれから、変化のダイナミズムが生じる。類型を実体とせず、その生成消滅が歴史となる。

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素朴な反映論ではなく、射影構造の模写論から理解されるべきであれ、心の概念は世界観や社会構造との連関において成立するがゆえに、美は世界を映し、希望を示す。美には流行があり、流行が美を生む。古代の美は秩序と光輝、近代の美は個性と独創であるとして、では現代の美は何か。機械美への陶酔と不安は、秩序と独創を両立させるような巨大な生産、つまり歴史の感覚につながっている。

ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン』

ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン――新しい人文学に向けて』門林岳史監訳、フィルムアート社、2019年(原著2013年)

 

ブライドッティによれば、現代の科学技術の発達と政治経済のグローバル化によって、個人主義的な主体性を人間に認めがたくなってきている。この状況下で、三つのポストヒューマニズムの潮流があらわれてきているという。マーサ・ヌスバウムのように、普遍的な人間性の道徳的価値を復興させようという反動的ポストヒューマニズムないし新ヒューマニズム。ブリュノ・ラトゥールのように、人間と非人間が緊密な関係性を形成していることをたどる分析的ポストヒューマニズム。そしてブライドッティ自身の、生命一元論の観点から人間と非人間の集合的主体性を実験する批判的ポストヒューマニズムだ。

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ブライドッティの批判的ポストヒューマニズムとは、アファーマティヴなものだという。ヒューマニズムとアンチヒューマニズムの対立が理論的な袋小路に入り込んでしまっている現況に対して、批判的に介入するものだという。だがこの介入は、歴史性に根差した、個別的な系譜との取り組みとしてしか可能ではない。もちろんルネサンスヒューマニストはルネ・デカルトのコギトもイマヌエル・カントの超越論的主観性も知らない。戦後フランスのアンチヒューマニスト(フランス現代思想の立役者たち)が批判したのは、ルネサンスヒューマニズムではまったくなく、あくまで同時代の実存主義的・マルクス主義的・キリスト教的等々のヒューマニズムであっただろう。ブライドッティ自身のがどの系譜に取り組んでいるのか、その個別性を見失っては彼女の批判的ポストヒューマニズムの射程は見定められない。

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ブライドッティは、ポストヒューマン的な集団的主体性のいわば究極形を、地球への生成変化として語る。フェリックス・ガタリミシェル・セール、ブリュノ・ラトゥールらの議論を思い出させるが、ブライドッティによれば、環境問題に直面した人間と非人間が危機の共有において集団的主体性を形成する、という分析的ポストヒューマニズムの主張はいまだ受動的にすぎるという。ポストヒューマンという「概念的人物」(ドゥルーズ=ガタリ)によってより積極的に集団的主体性の可能性を開拓することが、彼女の狙いだ。この集団的主体性の基礎は、ゾーエー平等主義という生命一元論に求められている。

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普遍的で抽象的な人間性――しかし実は理性をもつ白人男性異性愛者を暗黙のモデルとした人間性――に代えて、何にもとづいて新しい共同性を打ち立て、新しい主体性をつくりだすか。個人的主体から集団的主体への転換については、ブライドッティ以前にすでに中井正一も考察し実験していた。ただ中井からブライドッティへとそのパラダイムは、機械と映画から、クローン羊とオンコマウスへと変わっている。土台も歴史性から身体性へと移っている。とはいえ、機械と歴史は身体と生命に含まれ、また含むものであることを、忘れるべきでない。

ミシェル・セール『人類再生』

ミシェル・セール『人類再生』米山親能訳、法政大学出版局、2006年(原著2001年)

 

セールは人類の文化と認識の発展の起源を、最初期の技術たる動物の家畜化(正確には人間と動物の「相互飼い慣らし」)に見いだす。その要となったのは、分節言語によらない外観の――しばしばきわめて美しい――表出によるコミュニケーションであるという。こうした言葉以前の感性的なやりとりは、現代では無用のものになっているどころか、セール言うところの「出ダーウィニズム」の作用にしたがって、科学技術を通して種々様々なデータへと翻訳されて地球規模の集団組織――「ビオソーム」――の根幹になり、いっそう緊密で重要なものになっている。

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セールが自由と多様性の原理とする情報装置は、コンピュータ以前にすでに筆記具であり、さらにはそのモデルになった農耕の風景(pagus)であり、もっと言えばアルゴリズムとしての自然そのものだ。その汎価性がまさに目的なき合目的性であることに注意しよう。

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技術は偶然を排除することでものごとを合目的的にするが、筆記具からコンピュータまでの情報の技術は特定の目的なしに合目的性のみを生み出すという。バイオテクノロジーがゲノムという情報のレヴェルにまで達した現在、セールによれば、この目的なき合目的性は生命それ自体、ひいては世界それ自体の特性と化している。この指摘は、新田博衞の示唆によればもともと芸術ではなく自然とりわけ生命のことが念頭にあったカント『判断力批判』の洞察に、たしかに通じるものだろう。だが、カントとセールとのあいだで科学と道徳のありようが変わってしまったがゆえに、美的判断も生の意味も変わらざるをえない。

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自然と文化のあいだの移行という文化人類学的な問題について論じながら、セールはそこから第三項として「精神=霊」が生じると示唆する。それは暴力に対する言葉であり、エネルギーに対する情報であり、ハードウェアに対するソフトウェアである。セールが宗教を重視する理由の一端はここにある。とはいえ、この精神的なもの、霊的なものの発生は、時間的順序においてよりあとのものというわけではないはずだ。認識のまえに交換があり、交換のまえに契約があるのだから。

ミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』

ミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』清水高志訳、水声社、2016年(原著2009年)

 

セールによれば、クロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」と捉え直したようなトーテミズムは、分類操作の基本原理として、自然科学の起源にある。そればかりか分類は、分類対象のみならず、分類をおこなう学者をも、その分類手法に応じて区別し分類してしまう。トーテミズムとしての科学の社会性がここにある。

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フィリップ・デスコラの語るアニミズムはさまざまな身体に共通の魂を見るが、セールによれば、ルネサンスガリレオ・ガリレイが成し遂げたものこそ、そのようなアニミズムの再生だったという。というのもガリレイは、多様でハードな物質世界をコード化し動かしている一つのソフトな数学的法則を見いだしたのだから。世界は数学の言語で書かれているとは、万物を動かす魂の発見の謂いにほかならない。とはいえ、ガリレイにとってその数学はまず幾何学だったのに対して、セールにとってはなによりもアルゴリズムである。

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トーテミズムが自然科学の起源にあり、アニミズムが物理学の起源にあるとすれば、アナロジズムは数学の起源だという。数学は次々と等号を打ち立て、同一性の種類の増加とともに進歩してきた。主体と客体は思考のなかでそのように同一化される。考える私は考えるものになる。私とは他者だ。といっても、同一性は多数あるのだから、私は多者でもある。アニミズムは変身にあらわれ、物理学は変形を扱うが、アナロジズムは所有=憑依にあらわれ、数学は思考を世界地図にする。

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デスコラにとってはナチュラリズムこそ西洋近代の基礎であり、批判すべきと言わずとも相対化すべき当のものだが、セールによれば近代科学はナチュラリズムにもとづいてなどいない。自然と文化との分割は存在せず、ただ権力と一体化した近代の教育制度における「人文科学」がそう語ったにすぎないという。そうして文化を自然に統合するセールの議論は、「大きな物語」のアルゴリズムに基礎をもつ一つの「ビッグ・ヒストリー」という印象を与える。ロジェ・カイヨワにも似るところがあるが、とはいえその基礎は法則というよりも物語のかたちをしている。

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知が普遍性に到達するのは、セールにしたがうなら、イデオロギーの不在でも、多種多様な見方でもなく、ある知が別の多くの知と付着成長のように絡まり合っていくそのつながりだ。デスコラは四つの存在論を分類するだけだが、セールはそれを次々につなげ、循環させて、アルゴリズム的な普遍性を示す。

ポール・ヴァレリー『ドガ ダンス デッサン』

ポール・ヴァレリードガ ダンス デッサン』清水徹訳、筑摩書房、2006年(原著1938年)

 

ヴァレリーが歴史や伝記に向ける疑義は、本を読みながらの落描きのごとき気まぐれで途切れ途切れの文体によっても体現されているだろう。偶然とそれへの応答を直線的に羅列するだけの歴史や伝記の言説に対して、「知性の喜劇」「精神の喜劇」を描写する断章は、布置と配列においてかえって必然的な本質を剔抉する。歩行に対する舞踊と言うべきか。マルセル・シュオッブでは歴史の一般性が批判されて個別性が目指されていたが、ヴァレリーでは歴史の偶然性が批判されて必然性が目指される。それはロベルト・ロンギも語るような布置だ。装飾、アラベスクとも言えるか。

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ヴァレリーにとって「装飾」の概念は生涯にわたって重要な位置を占める。アラベスクが空間的に展開する延長の装飾だとすれば、ダンスは時間的に展開する持続の装飾だ。いずれも実用的なものではないがゆえに、目的も終わりもなく、無限に続く。芸術を語る言説が、航海術や狩猟術の言説のような明晰さをもたず、かくも曖昧なのも、芸術の作品もろとも装飾になってしまうからか。装飾としての批評、それは本を読みながらの落描きの鏡像か。

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ドガの絵画の床や岩を語りながら、ヴァレリーは壁の染みを見るよう勧めたレオナルド・ダ・ヴィンチの教えを思い起こす。ヴァレリーによれば、アンフォルムなフォルムの描写は、定型表現に頼れないがゆえに、画家にその知性を行使させる。たしかにこれは、画家の才能が混沌において新しい着想に目覚めるとしたレオナルドを引き継ぐものだ。しかしレオナルドがただ着想を語ったのに対して、ヴァレリーは素描と観察を問題にする。レオナルドは着想において神になり、ヴァレリーは観察において知性になる。

ジャック・ランシエール『解放された観客』

ジャック・ランシエール『解放された観客』梶田裕訳、法政大学出版局、2013年(原著2008年)

 

ランシエールは、人間の多面性、現実の多層性をつねに注視している。それゆえに、あらゆる二項対立をその可能性の条件に遡って問い直し、対立が反転したり移動したりするさまを浮かび上がらせるだろう。そうして固有性というものをつねに翻訳・変換関係へと解消していく。これはランシエールの述べるフィクションの作業そのものだ。芸術作品を論じるランシエールの論述それ自体が、芸術のフィクションの作業をなぞる。この再帰性ランシエールの言う知性の平等ゆえのものだろうか。

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翻訳としての哲学というランシエールの発想は、感性的なものの布置の組み換えによる理解の営為としてのフィクションという議論に結びついているとともに、構造主義的な変換操作を思わせもする。ブレヒトアルトーの演劇が観客のパラドクスにおいて対になり、19世紀の一労働者の余暇がプラトンの国家論の反転になり、プラトンの演劇・舞踊論がギー・ドゥボールのスペクタクル論の原型になる。

ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ』

ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ』梶田裕訳、法政大学出版局、2009年(原著2000年)

 

歴史の終焉論から芸術の終焉論へと、思想の力をめぐる論争の場所が移動していくのにあわせて、ランシエールの研究領域も労働・歴史・文学・芸術へと拡張してきた。この書物の出版から20年になる現在では、真理の終焉論が花盛りか。この移動はむしろ近代というものの閉域を示しているのかもしれない。ランシエールが、倫理的体制・表象的体制・美学的体制の区別によって示そうとしているのも、論争の場所がどこに移動しようとも同じことの繰り返しになるという概念の閉域かもしれない。そしてそのこと自体が政治的なのだ、と。

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人間がアリストテレスの言うように政治的動物であるのは、なによりも言葉をもっているからだが、ランシエールはそれをフィクションの能力と捉えて、人間を文学的動物としても語る。フィクションは虚偽ではない。芸術が虚構で政治が現実だという話ではない。フィクションとは現実を構成している記号とイメージの再配置であり、見えるものと言えることとのある特定の関係をつくりだすものであって、その意味で知識も政治も芸術もすべてフィクションをつくりだす。フィクションはまた、ランシエールによれば、与えられた運命から逸れて逃れるためのものでもある。