The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

吉田健一『ヨオロッパの世紀末』

吉田健一『ヨオロッパの世紀末』、岩波文庫、1994年(初版1970年)

 

 吉田健一はヨーロッパ文明の完成を18世紀に見る。それは18世紀に、古代のギリシア・ローマ文明とは異なるその性格が明確になり、当然のものになったということだ。ギリシア・ローマとヨーロッパ、古代と近代との違いは、なにより自意識のありようにあるという。エウリピデスのメデイアとシェイクスピアマクベス夫人とでは、前者にとって自分が女であることは何をしようと自明であるのに対して、後者は女であることをやめさえして自分を見失うにいたる。このヨーロッパ人の後ろめたさ、暗さ、影は、キリスト教に由来し、永遠をまえにしてつねに自己を注視しつづけるがゆえのものだ――逆説的にも、古代の格言「汝自身を知れ」が意味をなさなくなるほどに。

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 吉田健一によれば、人間が人間と認められるのが文明の状態であり、それにもとづいて認識も行為もかたちづくられる。他人を道具や手段と見なさないことはもちろん、理性を尊重して遊戯を楽しみ、優雅・いたわり・快楽に価値が置かれる。この点で、ルネサンスはまだ文明の若さの発露であって、その成熟はロココにいたってのことだという。成熟は、一般に詩よりも遅れて発達する散文がヨーロッパでは18世紀に完成したことにも示されている。ギボンのそれのごとく、執筆は生活と区別されず、息をするように書けるものになった。さらに進歩の観念も精神の解放をもたらして、革命の観念とは反対に、現在を認めながら希望をもつことを許した。

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 18世紀の精神はなによりまず自由であり、すべてを懐疑の対象にしえて、理性を存分に働かせながら、それがヒュームの哲学に見られるごとく優雅な言葉や洗練された社交と別のものではなかったと、吉田健一は指摘する。この自由の精神はまたヴァトーの絵画、モーツァルトの音楽にも示されていて、それは時代の反映というよりも――まして時代によって説明されるものではなく――そこに18世紀ヨーロッパがあり、この時代から離れたところにいる者にも精神の自由を感得させる、と。社会は進歩するが人間は変わらないことを知っていて、希望と諦念、優雅と果敢なさが絡まりあい、諷刺に自分自身をも含めずにはいなかった精神だ。

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 吉田健一はヨーロッパ19世紀をいわば分化の時代と捉える。18世紀に完成したヨーロッパが分業化し専門化して、いっそう発展したとは言えるにしても、ヨーロッパらしい全体性が見失われて、精神の自由も消失する。優雅と諦念をもって精神を自由に遊ばせた18世紀に対して、19世紀は観念に奉仕し、自由・平等・博愛という観念の純粋性を人間よりも優位に置いたという。そうして、神でなくとも批判してはならないものが増殖し、堅苦しく威圧的な態度が基調になる。18世紀の理性は19世紀の合理主義に変わる。個性があるからこそ普遍につながりえるのに、19世紀ヨーロッパは個性的なものを脱け出して一般的で抽象的になる。

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 19世紀のヨーロッパはとくに政治と科学において世界に影響を与えた。その政治は、観念に奉仕して、精神の自由を失った。同様に科学も、視野を物質に限定して、それゆえ正確で無尽蔵の発見をするようにはなっても、視野狭窄となったことにちがいはない。だが、吉田健一の指摘することでは、物質は人間の反応を原始的な驚異にまで引き戻すところがあって、それゆえの科学の全能感はすべてを――詩さえも――科学で説明しようという倒錯をもたらしたという。科学が進歩しても人間の生きる幸福は変わらず、むしろ生きるための条件が増えて困りさえするというのに、進歩の観念の変質により人間そのものの進歩すら信じられるようになったのだ。

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 19世紀のヨーロッパ文学はロマン主義とされる。キリスト教により自分の限界を見失うとともに自意識を得たヨーロッパ人は、18世紀に自分と他人を同様に意識するという均衡によって文明を完成させたあと、19世紀にはそれでも自分の意識の直接性と内密性に執着してロマン主義にいたる。ロマン主義らしい苦悩と反抗は、言うなれば神よりも神の不在に対してのもので、自分を確かめるための相手を失った空白の状態だと、吉田健一は見なす。ここでは精神も散漫なら言葉も曖昧で、文学はその観念の型通りに泣ければよいものだったという。バイロン『チャイルド・ハロルドの遍歴』の読者が求めたのはハロルドという人物であって、バイロンの詩ではなかった。

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 吉田健一によれば、ボードレールは健全な精神をもっていたからこそ19世紀のヨーロッパに反発したのだという。彼の「パリの憂鬱」は、ロマン主義的に憂鬱を気取っているわけではなく、時代への正確な認識と描写をおこなっている。ここから世紀末が始まる。世紀末のいわゆる頽廃は、自由に精神を働かせて言葉を使うのが病的とされた19世紀の視点から見られたものであり、世紀末の反逆の芸術家も、ロマン主義的なものではなく、ロマン主義に毒された19世紀の俗世間から離脱する身振りだったというのだ。これはまた、詩は言葉である、という伝統への復帰でもあったという。ボードレールは何より卓越した詩人である。

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 吉田健一はヨーロッパの世紀末を認識する時代と性格づける。その典型はヴァレリーのテスト氏だ。言葉の認識が制作と一致する詩と批評が発達する。ヨーロッパの全体が見えてきて、歴史が書かれるとともに芸術が生まれ、ヨーロッパの過去が生きはじめる。過去があるほど現在は豊かになる。そうした世紀末の時間意識はプルーストやラフォルグにあらわれる。そうしてワイルドはビアズリーとともに古代に生きる。世紀末は同時代性に閉ざされず、プラトンデカルトもその現在をなし、それは一枚の木の葉や印象派の絵やラフォルグの秋の雨に濡れた公園の腰掛けと同じであった。

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 ヨーロッパの世紀末はそのままヨーロッパの近代であり、ふたたび文明の状態に達した時代であったという。ここで吉田健一が強調するのは、近代がある普遍的な状態――ヨーロッパ世紀末のみならずトラヤヌス帝治下のローマや平安の日本にも見いだしうる――を指すとともに、それを生じた文明ごとの個性をはっきり示すことだ。ホイッスラーの絵画、ボードレールの詩、ヨハン・シュトラウスの音楽、ベルクソンの哲学、そこにヨーロッパがある。19世紀の無個性と抽象性に対するヨーロッパらしさの回復が世紀末であり近代であるなら、近代化とはまず個性化、その場所ならではの生の形式の確立でありその認識ということになるだろう。

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 19世紀のヨーロッパが抽象化によって個性を失い、科学と政治の万能を信じ込み、どこでも通用する規範の陳列所のごとくなっていたのなら、世紀末にヨーロッパはヨーロッパになった。ミレーの農夫の抽象性に対してマネのカフェは具体的にパリに親しみを覚えさせる。ドガセザンヌの絵も、またマラルメやラフォルグの詩、セザール・フランクの音楽でもそうだ。吉田健一によれば、芸術に惹かれるのはまずそこに人間を感じるからだという。それが親しみを覚えさせ、具体的だからこそ普遍につながる。言葉は、「太陽」でも「平和」でも、一つのことを通して世界すべてを指すものであり、この認識が世紀末の象徴主義になった。

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 キリスト教もヨーロッパの性格をなすものであるからには、世紀末にはキリスト教の復活ないし更新もあった。これは神が19世紀的な観念であることをやめて人間的になったことだという。永遠をとるかとらないかという宗教の問いがキリスト教のかたちをとったのがヨーロッパの人間であって、それゆえ世紀末のキリスト教にもヨーロッパがある。ボードレール、ホプキンス、ヴェルレーヌランボーの詩で詠まれた神は、芸術と同様に、まさにそれであるものに戻り、神という個を通して全を摑むことができるようになった。

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 ヨーロッパのキリスト教には、中国の中華思想と同様、他者を人間とみない排他主義的なところがあったと、吉田健一は指摘する。だが自分たちが人間で、他人たちは人間でないとすると、その自分たちはどこの人間でもない人間になり、その人間の観念そのものを怪しくしてしまう。自己と他者の均衡を打ち立てた18世紀につづいて、ヨーロッパが鬼でも紳士でもなくヨーロッパ人の住むヨーロッパに戻った世紀末は、だから人間の復権である。吉田はトインビーの歴史観が19世紀的な観念性に引きずられていることを批判して、ヨーロッパの近代文学が典型的に伝えているような個性こそが普遍にいたるのだとする。人間とその文明は普遍的で、だからこそそれぞれに個性を有しているのだ。