The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ジョルジョ・アガンベン『涜神』(上村忠男、堤康徳訳、月曜社、2005年)

涜神


ジョルジョ・アガンベン(1942- )が、みずからの思考の核心を述べたという小さな書物。

この書物のタイトルにもなっている「profanazione〔複数形ではprofanazioni〕」という語は、(アガンベン自身はこの書物のなかでは語源に触れていないが)「pro〔前に〕」+「fanum〔聖域、神殿〕」から派生した「profano〔聖域の前=俗世〕」の動詞化「profanare〔聖域の前へと引き戻す=涜する〕」をさらに名詞化したものだ。アガンベンがこの語に託しているのは、手の触れえない「聖域」へと隔絶されてしまっているものを、ふたたび手の触れえる場所へと引き戻すことである。はじめアガンベンはこれを、マルクスを踏まえつつ「交換価値」と「使用価値」の問題として論じているかのように見える。しかし、「交換よりも使用のほうが自然的である」という思考を、マルセル・モースを引きつつ批判したのが、ほかならない『スタンツェ』のアガンベン自身であり、この書物においても「交換価値」と「使用価値」の双方にベンヤミンの「展示価値」をぶつけることで、「使用や享受の自然さ」という神話を批判する。そして、「profanazione」は、聖なるものをたんに使用し享受することで成し遂げられるのではなく、むしろ使用や享受をさらに「遊び」によって「パロディ化」することで成し遂げられる、とする。そのため、アガンベンによれば、現代の問題とは、この「遊び」「パロディ」すらも「聖なるもの=涜せぬもの」へとかえてしまうような動きに対して、これをさらに「パロディ化」し「涜する」ことである。

こうしたことを述べた「涜することを讃えて」のように比較的長めの論考から、「欲望すること」のように短いアフォリズム、「映画史のもっとも美しい六分間」のような寓話まで、十編の論考が収録されている。それらを読んでいて気づくのは、アガンベンの思考が『中身のない人間』や『スタンツェ』といった最初期の著作から驚くほど一貫している、ということだろう。『中身のない人間』ではロマン主義美学における「イロニー」や「パロディ」といった概念がすでに中核を成していたし、『スタンツェ』では〈認識/享受〉に分断されてしまった近代を「批評」によって(破壊しつつ)媒介しようとしていた。そしてこの『涜神』においても、〈交換/使用〉だけでなく〈全体/個体〉〈ゲニウス/わたし〉〈イメージ/欲望〉などの分断を、アガンベンは、「遊び」や「パロディ」によって空無化する(「目的なき手段」「純粋な潜勢力」にする)というかたちで媒介しようとしている。その意味で、アガンベンの思考ははっきりとロマン主義アヴァンギャルドの美学の延長線上に位置しており、またその意味でこそ、ベンヤミンの後継なのだろう。