The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 河野哲也『環境に拡がる心―生態学的哲学の展望 (双書エニグマ)』(勁草書房、2005年)

環境に拡がる心―生態学的哲学の展望 (双書エニグマ)


生態学的な存在論の視点から、身体、他人、言語、技術、動物、自由を捉えなおした書物。

「心」なるものをそれ自体として取りだして考察することがいかに問題があるかを、前著『エコロジカルな心の哲学』にひきつづき明晰かつ説得的に論じていて面白い。内的な「心」として記述されるものの多くは実は外的な行為の記述である、というのはたしかライルやウィトゲンシュタインなどが主張してたようにも思うが、ギブソンメルロ=ポンティの場合は環境や身体の物理的な特性自体がまさに「心」と言われている機能を果たすことに着目したようだ(初期のメルロ=ポンティは、〈生きられた/死んだ(=物理的)〉というメタファーによって身体を二分したために、デカルト主義に足下をすくわれてしまっていたようだが)。「心」とされるものはその内実も境界も曖昧で、身体や環境もまた「心」である。逆に言えば、ある意味で「心」とは、身体や環境から生みだされる行為の「形容詞」なのではないだろうか。結局のところ重要なのは、アーサー・ダントーも言うように、心身問題ではなく「身身問題」だろう。

「行為」という観点からすれば、環境や身体、そしていわゆる「心」とされるものはすべて行為の因子として一元化される。ここから出発して、「知覚」だけでなく「身体」「言語」「技術」などもまた「行為」という観点から捉え直されていく。実体の存在論とは異なる、この行為=出来事=過程の存在論こそがこの書物の核心にあると言えるだろうが、これは実は、ジョルジョ・アガンベンによる〈プラクシス/ポイエーシス〉の分析に照らし合わせてみれば、ひじょうに古くからある(そして西洋哲学の歴史において中心的な位置を占める)存在論なのかもしれない。このプラクシスの観点を、ポイエーシスの観点に移行させることは可能だろうか。もちろん、思弁的になりすぎることなく。