The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 中山康雄『共同性の現代哲学―心から社会へ (双書エニグマ)』(頸草書房、2004年)

共同性の現代哲学―心から社会へ (双書エニグマ)


言語行為論や心の哲学の知見から、共同性について分析した書物。

コミュニケーションや会話を、コードモデルや推論モデルではなく、一連の行為の連鎖として分析するというのは重要な視点だろう。だが、〈心/身体〉〈自/他〉〈個人/集団〉といった区別がやや安易に前提とされている点は、いささか物足りなく思う。たしかに、そうした区分のあいだに相互関係があることをひとつの軸にして議論を展開しており、その意味では安易な分割を避けようとしているものの、そうした「相互関係」という観点だけでほんとうに共同性を説明できるのかどうかについては疑問が残る。

共同性を「一致」「類似」「共有」に見いだす考え方は、ありふれたものではあるが、はたして本当に妥当なものなのだろうか。その一致や類似や共有は誰の視点から観察されたものなのか。はたして第三者の観点から見て一致しているということなのか(この場合は、その第三者とは誰かが問題となるだろう)、それともたんに集団の構成員が「皆が一致している」と信じているというだけのことなのか。ただ、このどちらの考えをとるにしても、それは共同性がその要素に還元できるという考えに通じているように思う。この本でも、集団の志向性をその構成員の志向性の総和(というか一致)に還元できるとしている。だが、集団や共同体(あるいは社会、組織、構造、システム等々)は、その構成員の総和に還元できないからこそ、問題となるのではないだろうか。たとえば会話で、だれも口論を望んでいないのに、口論になってしまうことはありふれたことだろうが、この「場の空気に流されて」としか言いようのない事態こそ、集団や共同体の志向性がその成員の志向性に還元できないことを示してはいないだろうか。

ところで、行為の記述には目的や結果への言及が不可欠である(そしてそのほかの記述には必ずしも目的や結果への言及は必要ではない)という点については、ジョルジョ・アガンベンアリストテレスの〈プラクシス/ポイエーシス〉について論じていることを参照すると面白いかもしれない。そしてまた、マリオ・ペルニオーラがバロック思想について論じているときに述べた「欲望は過去形でしか存在しない」ということばと。