The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 Georges Didi-Huberman, Être crâne. Lieu, contact, pensée, sclupture, Minuit, Paris, 2000.


ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(1953- )によるジュゼッペ・ペノーネ論『頭蓋になること』。

ディディ=ユベルマンはペノーネの作品の根幹にdéveloppementを見いだす。このdéveloppementは視覚的には「現像」(写真などの)という意味であり、時間的には「発生」の意味である。ペノーネの彫刻は「空間的なオブジェ」によって仕事するのではなく、「痕跡」(刻印や鋳造)によって仕事することで、時間や記憶が織り込まれた場を、「生まれつつある場」を、「現像」し「発生」させるという。この時間と記憶を携えた物質としてのペノーネの彫刻を、ディディ=ユベルマンは思考と物質が一致する「頭蓋」と捉えているようだ。そうして、ペノーネの「頭蓋」としての彫刻を、頭や脳において思考と物質を分断してしまうさまざまな言説に対置する。それは、ポール・リシェにおける頭蓋と「箱」の同一視であり(解剖学では、「crâne」という語をもちいずに「boîte crânienne」つまり直訳すれば「頭蓋的」という語をもちいるらしい)、レオナルド・ダ・ヴィンチにおける「タマネギ」のメタファーであり、アルブレヒト・デューラーにおける「カタツムリ」との類比である。ペノーネの彫刻は、これらに抗して、「物質は記憶であるla matière est mémoire」(この表現は間違いなくベルクソンを意識しているだろう)ことを告げ、「思考の住まい」としての「開かれた場=aître」(これはアンリ・マルディネを参照している)を提示する。

ここにはもちろん、可視性やそれのみにもとづくミメーシスを批判し、そこに触覚や時間性やファンタスムを導き入れるディディ=ユベルマン自身の一貫した批評の姿勢を見て取ることができるが、しかしペノーネの作品の特異性を的確に捉えているだろう。ペノーネにかぎらずアルテ・ポーヴェラと関わりのある芸術家たちの多くが、物質と思考の一致(と言って良いものかどうか。あるいは重奏、輻輳、混淆、錯綜…)を強く印象づける作品をつくりだしているが、同時にその作品がアニミスムやアンソロポモルフィスムとの親近性を感じさせるのも、そうした物質と思考の関係に起因するのかもしれない(「ものが思考し記憶する」というのは、アニミスムやアンソロポモルフィスムにほかならないだろう)。このあたりは、ジョルジュ・カンギレムの議論なども参照して視野を広げていけばさらに面白くなるように思う。ただ、「物質と思考」という表現の仕方は誤解を招きやすいので、個人的にはあまり使いたくないが。