The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ジョルジュ・カンギレム『生命の認識 (叢書・ウニベルシタス)』(杉山吉弘訳、法政大学出版局、2002年)

生命の認識 (叢書・ウニベルシタス)


ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)による、生物学・医学における生気論の問題系などを扱った論文集。

なによりもまず、「生気論(vitalisme)」についての特異な解釈が強く印象に残る。カンギレムによれば、生気論とは一般にそう思われているような神秘主義的な学説などではなく、「アニミスム」と「機械論」というふたつの形而上学をともに拒否し、生命の特異性を捉えようとする思考なのだという。そこから、有機体を機械に還元するのではなく、むしろ機械を有機体に取り込んで思考する必然性が、広範な歴史資料をもとにしながら論じられる。

人体をはじめとした生体は機械になぞらえられて捉えられることが一般的だった(もちろんそれは、たとえば脳をコンピュータに喩えたりと、今日でも一般的に見られる)が、実はその機械のほうもその根底においては生体をモデルにして考えられている、とカンギレムは言う。生体をそのメカニズムの観点から記述して機械論的に理解しようとしても、最終的にそのメカニズムを動かしているエネルギーを外部に求めざるをえなくなる点で、機械論的な還元は完遂しえない。その意味で、「エネルギー」概念は生気論の核心にあるのではないだろうか。このエネルギーという概念は、たとえばジョヴァンニ・アンセルモやジルベルト・ゾリオなどの芸術作品の中心にある主題のため、アルテ・ポーヴェラの作品群に結びつけてみると面白い議論になるようにも思う。ただ、アニミスムと生気論との差異をまだしっかりと把握できていないため、その点には注意する必要があるだろう。

それとは別に、やはりカンギレムの「病理的なもの」の捉え方は面白い。病理や異常は、規範からの逸脱ではなく、別の規範への移行、あるいはむしろより少数の規範に強制的に囚われてしまうことだという。正常であることは、複数の規範を自在に行き来し、そこから離れることができることであり、いわば病気になってそこから回復する能力こそが健康である。ジャック・ラカンの分析したパラノイア症例などを見れば分かるように、たしかに「病理的」とされるのはあまりにも厳格にひとつの規範に従いすぎることだろう。規則正しさや規範(それは平均であるとともに理想でもある)への忠実さではなく、自在に複数の規範を往還することこそが、「健康」であり「正常」なのだろう。