The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 小林道夫『科学哲学 (哲学教科書シリーズ)』(産業図書、1996年)


おもに物理学の領域における哲学的問題を概説した書物。「理論」「観察」「実験」の相互関係や「実在」をめぐる議論を的確に丁寧にまとめていて分かりやすい。

この書物では、物理学における理論的存在(電子とか)の「実在」を認めない「帰納主義」「実証主義」「現象主義」「規約主義」「道具主義」の立場の問題点を指摘し、最終的には「実在」を認める立場を擁護する。理論的存在は、たしかに実際に肉眼で「観察」はできないが、それでも予測した結果を「実験」において生産することでその実在を確認できる、という。ただ、そのように理論的存在の実在を認めると、ときに理論の重要性を過大評価しすぎる危険性がある、とも指摘し、理論の過大評価から行き着く「相対主義」を批判することも忘れてはいない。相対主義の議論のどこが誤りかと言えば、理論間の翻訳関係、包含関係、階層関係をまったく考慮していないことである。そしてまた、同様の問題点は過度の「ホーリズム」にも指摘できる、という。

「観察の理論負荷性」や「理解における先入見の重要性」という議論それ自体は説得力があり、おそらく正しいが、ただその観点を過度に推し進めてしまうなら、「理論」や「言語」しか存在しないという焼き直された観念論に行き着いてしまう。それでもなおなんとか現実との結びつきを確保しようとすれば、「まったく意味のない純粋な刺激としての現実」といった考えが導入されることになる(というのも、意味は理論や言語にしかないからだが)。だが、そもそも理論負荷性や先入見を強調したのは、そのような「無意味な現実+それに対する解釈」という思考を批判するためだったはずであり、ここにきていつのまにか転倒してしまっている。理論は重要だが、あくまでもそれは「光をあてる」ものとして機能する。

ただ、「日常」と「科学」との差異についての議論(「日常」という概念の曖昧さはこの際おいておくとして)は、たしかにバランスの取れた見方ではあるが、結局のところ「日常」と「科学」との通訳不可能性を主張する一種の「相対主義」にも見えてしまう。物理学の内部には相対主義はありえないが、物理学の外部ではありえる、ということだろうか。今日、科学が問題になっているのだとすれば、やはり「科学」と「日常」とが無関係に併存しているわけではないからなのではないだろうか。そのあいだにも、翻訳関係、包含関係、階層関係が存在しているのではないだろうか。そもそも(やっぱり「日常」概念の曖昧さに触れてしまうが)、「日常」は直接感覚による体験が重視され「科学」は理論を通した観察が重視される、というようには、〈日常/科学〉を分割できないように思う。科学だけでなく、日常という複合体にも複数の理論が組み込まれていて、それらの一部は科学とも交差しているのではないだろうか。あるいはその逆も。こうしてここでも、翻訳、包含、階層が問題となるように思う。