The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ガタリ

ひきつづいてガタリの『闘走機械(冬の時代)』と『哲学とは何か』(ドゥルーズと共著)の芸術論を読んでみるに、なによりも感覚を重視するあたりが還元主義的なモダニズム美学を彷彿とさせる一方で、テリトリーとコスモスといった概念で説明されるコンポジションの話は生態学的な発想に親和的だという印象。ふとブリュノ・ラトゥールも、構築主義を批判しつつ、みずからの立場をコンポジションの概念によって説明していたのが思い出される。とはいえ芸術論の系譜を遡るなら、芸術を感情と捉えてそこからネットワーク形成を立ち上げるあたりは、ジョルダーノ・ブルーノ以後の紐帯としての芸術の思想に連ねるべきかもしれない。もっとも、それを支えているのは想像力の論理ではなくて、感覚の論理になっているようだけれど。

ガタリ

ステファヌ・ナドー〔ステファン・ナドー〕らによる精力的な遺稿出版もあって、このところ再考すべき状況が整いつつあるかにみえるフェリックス・ガタリ。その「機械」や「動的編成」といった概念がミシェル・セールの準客体論やブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク論と親和的だという印象はもっていたものの、しだいにエコロジーと美学/芸術への傾斜を強めていったガタリ晩年の書物を繙いてみると、いたるところで「主観化(主体化)〔subjectivation〕」と「実存〔existence〕」を繰り返していて、美学という点も含めて、むしろミシェル・フーコーの晩年を思わせたりもする。フーコーが思想史的な系譜の発掘によって狙っていたものを、現代社会の機構の再編によって補完している、というような。また、セールの場合はネットワークの形成を通した客観(客体)の出現と普遍化のほうに比重が置かれているのに対して、ガタリの場合は同じネットワークの形成を通した主観(主体)の生産と特異化のほうがより前面に出ているように思う(どちらも同じネットワーク形成の表と裏ではあるにしても)。
とはいえ、マニフェスト的な総論テクスト一篇と日本講演のテクスト二篇からなる薄い書物なので、展望はあっても細部はよく見えない。〈精神/社会/自然〉の三対の話もやや唐突な感が拭えず、芸術理論もこれだけではなんとも言えず、やはり同じ晩年の『分裂分析地図作成法』『哲学とは何か』『カオスモーズ』あたりに照らして読む必要がある模様。それでも、ガタリの意外なほどのまっすぐさというか、「アクティヴィスト」ガタリの長年の実践経験に裏打ちされた安定感と真摯さが強く印象に残る。

シャステル、ギンズブルグ

ルネサンスのグロテスク模様の装飾を、ミシェル・ド・モンテーニュが自分の『エセー』に重ね合わせたのは有名な話だけれど、これがルネサンスの自然論・芸術論・想像力論の交点を指し示している興味深い事例だということを、シャステルとギンズブルグを読みなおしてあらためて実感する。フィリップ・モレルはグロテスクの根底にある想像力の在り方をジョルダーノ・ブルーノの想像力論に見いだしたが、自然と人為、現実と空想の境界線を瓦解させるグロテスクの想像力は、はるか遠くまで反響して、アンドレ・ブルトンがジョルダーノ・ブルーノを引き合いに出して語った「わたしたちの想像力と思考が〈自然〉を越えるなどとは考えられない」という言葉にまでつながっているようにも思えてくる。

アラス

  • Daniel Arasse, Léonard de Vinci. Le rythme du monde. (1997)

ダニエル・アラスが「運動」という観点からレオナルド・ダ・ヴィンチを論じたこの書物、レオナルドの受容史にも目配せしているところはアラスならではだけれど、それとともにエミール・バンヴェニストの有名なリズム論をさらっと参照して、運動と形態の両側面をあわせもつものとしての「リズム」に着目している。運動といいリズムといい、西洋思想史のなかで「不動」よりも「運動」が、「存在」よりも「生成」が上位に置かれる(あるいは少なくともその理解が哲学の第一課題と見なされる)ようになった転換点は、やはりルネサンスあたりのように思えてくる。

デューリング

  • Élie During, "La compression du monde" (2009)

プロトタイプ論のさらなる展開を追いかけるまえに、エリー・デューリングの別系列の現代芸術論も読んでみようと「世界の圧縮」を繙くと、こちらは時間論と密接に連動した話。
情報技術の進展によって現代社会の美学が未来派的な「高速性」からヴィリリオ的な「同時性」へと変貌しつつあるかに見えると指摘したうえで、アインシュタイン相対性理論ダン・グレアムやマーク・ルイスのインスタレーションを参照して、むしろ複数の時間性のあいだの断絶と干渉に視点をずらしていく。そうして単純で反動的な「ローカル」の称揚を回避していく手際は見事で、またなぜデューリングが「プロセス」や「パフォーマンス」や「関係性」に孕まれる瞬間性(現場体験)の偏重を疑問に付すのかがより明瞭になっているように思う。

デューリング

  • Élie During, "Du projet au prototype (ou comment éviter d'en faire une oeuvre ?)" (2002)

パナマレンコの引用で締め括られていた先日の「プロセスからオペレーションへ」にひきつづき、エリー・デューリングの前年の論考「プロジェクトからプロトタイプへ」を読んでみると、ちょうど同じパナマレンコの引用から議論がはじまっていて、まるで話の続きが展開されている趣。「脱物質化」した現代芸術のステータスを、「コンセプト」や「プロジェクト」、あるいは「プロセス」などに一元的に還元せずに、理想状態であると同時に物質的に実現されてもいる「プロトタイプ」に見いだそうとしている。
パナマレンコの飛行機は、「飛ばないことができるように〔pour pouvoir ne pas voler〕」つくられているのであって、「飛ぶことができないように〔pour ne pas pouvoir voler〕」つくられているのではない、という指摘も含めて、なにやらジョルジョ・アガンベン『事物のしるし』のパラダイム論を彷彿とさせる(デューリングのほうが早いけど)ものの、むしろブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論に引き寄せるところは、さすが美学と並んで科学哲学をもう一つの専門とするデューリングならではと言うべきか。

デスコラ

  • Philippe Descola, "Une anthropologie de la figuration" (entretien avec Nikola Jankovic) (2007)
  • Philippe Descola, "Ontologie des images." (2008-2009)

友人たちと細々と読み進めているフィリップ・デスコラのコレージュ・ド・フランス講義「イメージの存在論」の要旨だけれど、世界各地の図像文化を〈アニミズム/アナロジズム/トーテミズム/ナチュラリズム〉の四つの類型に分類する作業がほとんどになってしまっていて、話題としては豊富で面白いものの、ともすれば文化本質主義に逆行してしまっている印象もちらほら(アラスカはアニミズム、西アフリカはアナロジズム、オーストラリアはトーテミズム、ヨーロッパはナチュラリズム、というような)。
もちろんそんな単純な文化類型論がデスコラの狙いではないはず……ということで、講義の前年のインタビューを読んでみると、デスコラのイメージ人類学の狙いは、一つには、芸術人類学(アルフレッド・ジェル)が西洋的な「芸術」概念を基準にしがちだったのに対して、その基準自体を複数化しようということのよう。この狙い自体はとてもしっくりくるものの、それを類型化してしまうのはミスリーディングではないかとも思う。とはいえ、デスコラの狙いの妥当性を本格的に検討するには、大著『自然と文化を超えて』を繙くしかなさそうではあったり。

デューリング

  • Élie During, "Du processus à l'opération" (2003)

科学哲学と美学を股にかけて活躍するエリー・デューリングが1960年代以降のいわゆる「脱物質化」(ルーシー・リパード)していく現代芸術を論じたテクストを読んでみると、「操作(オペレーション)」という観点からプロセス・アートとコンセプチュアル・アートの相補性が指摘されている。
「操作」「実験」「プロトタイプ」といった観点は、科学哲学も押さえているデューリングならでは、とは思うものの、論旨自体はあくまでまっとうというか、まっとうすぎるというか。基本的には、その場での体験(現場主義?)に限定されて理解されがちだったプロセス・アートやハプニングやイヴェント、さらにはインタラクティヴ・アートや関係性の芸術に、実は「観念」や「概念」や「規則」の次元が不可避的に関わっていることを指摘して、よりコンセプチュアル・アートにひきつけた理解を提起しているといった印象。とはいえ、そこからどんな新しいものが見えてくるのか、別のテクストも繙いてみる必要がありそう。

シュミット、ヘラー=ローゼン

  • カール・シュミット「海賊行為の概念」(原著1937)
  • 同『陸と海と』(原著1942)
  • ダニエル・ヘラー=ローゼン「万人の敵」(原著2009)

陸(ビヒモス)と海(レヴィヤタン)という「エレメント」の鬩ぎ合いから世界史を読み解いた古典的著作として名高いカール・シュミットの『陸と海と』だけれど、世界の政治的動因が陸から海へと転換していく時代をとりわけ一六〜一七世紀に見ながら、その契機として「捕鯨」と「海賊」の重要性をとても強調しているのが印象的だったり。「海賊」は、ルネサンス以後にいわば世界を一つの「世界」へとネットワーク化していった存在でもあったよう。そこであらためて『現代思想』の「海賊」特集号(2011年7月)を引っ張りだして、シュミットの「海賊行為の概念」とダニエル・ヘラー=ローゼン「万人の敵」を読んでみたところ、こちらでは今日の「不法敵性戦闘員」「テロリスト」にまでいたる敵ですらない敵(人間ではない人間)の形象の系譜としての「海賊」が浮き彫りにされている。この「海賊」なるものの両義性は、少々突き詰めて考えてみたくなる主題のように思う。

パノフスキー

かなり久々にエルヴィン・パノフスキーの「時の翁」を読み返してみると、古典古代には基本的に「カイロス」と「アイオーン」の二つの時間概念しかなく、「クロノス」という時間概念は中世〜ルネサンスにかけての産物だという。ときにクロノスとアイオーンとが対比的に捉えられて(ジル・ドゥルーズの影響?)、はたまたそのどちらでもない第三の時間としてカイロスが引き合いに出されたりするけれど(マルティン・ハイデガージョルジョ・アガンベンの影響?)、当然のことながら概念史の紆余曲折はそのようにすっきりとは図式化できないよう。