The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

デューリング

  • Élie During, "Du processus à l'opération" (2003)

科学哲学と美学を股にかけて活躍するエリー・デューリングが1960年代以降のいわゆる「脱物質化」(ルーシー・リパード)していく現代芸術を論じたテクストを読んでみると、「操作(オペレーション)」という観点からプロセス・アートとコンセプチュアル・アートの相補性が指摘されている。
「操作」「実験」「プロトタイプ」といった観点は、科学哲学も押さえているデューリングならでは、とは思うものの、論旨自体はあくまでまっとうというか、まっとうすぎるというか。基本的には、その場での体験(現場主義?)に限定されて理解されがちだったプロセス・アートやハプニングやイヴェント、さらにはインタラクティヴ・アートや関係性の芸術に、実は「観念」や「概念」や「規則」の次元が不可避的に関わっていることを指摘して、よりコンセプチュアル・アートにひきつけた理解を提起しているといった印象。とはいえ、そこからどんな新しいものが見えてくるのか、別のテクストも繙いてみる必要がありそう。

シュミット、ヘラー=ローゼン

  • カール・シュミット「海賊行為の概念」(原著1937)
  • 同『陸と海と』(原著1942)
  • ダニエル・ヘラー=ローゼン「万人の敵」(原著2009)

陸(ビヒモス)と海(レヴィヤタン)という「エレメント」の鬩ぎ合いから世界史を読み解いた古典的著作として名高いカール・シュミットの『陸と海と』だけれど、世界の政治的動因が陸から海へと転換していく時代をとりわけ一六〜一七世紀に見ながら、その契機として「捕鯨」と「海賊」の重要性をとても強調しているのが印象的だったり。「海賊」は、ルネサンス以後にいわば世界を一つの「世界」へとネットワーク化していった存在でもあったよう。そこであらためて『現代思想』の「海賊」特集号(2011年7月)を引っ張りだして、シュミットの「海賊行為の概念」とダニエル・ヘラー=ローゼン「万人の敵」を読んでみたところ、こちらでは今日の「不法敵性戦闘員」「テロリスト」にまでいたる敵ですらない敵(人間ではない人間)の形象の系譜としての「海賊」が浮き彫りにされている。この「海賊」なるものの両義性は、少々突き詰めて考えてみたくなる主題のように思う。

パノフスキー

かなり久々にエルヴィン・パノフスキーの「時の翁」を読み返してみると、古典古代には基本的に「カイロス」と「アイオーン」の二つの時間概念しかなく、「クロノス」という時間概念は中世〜ルネサンスにかけての産物だという。ときにクロノスとアイオーンとが対比的に捉えられて(ジル・ドゥルーズの影響?)、はたまたそのどちらでもない第三の時間としてカイロスが引き合いに出されたりするけれど(マルティン・ハイデガージョルジョ・アガンベンの影響?)、当然のことながら概念史の紆余曲折はそのようにすっきりとは図式化できないよう。

カントーロヴィチ

  • エルンスト・カントーロヴィチ『王の二つの身体』(原著1957)

西洋中世に、永遠と時間との中間としての「永久〔aevum〕」概念が登場することによって、「法人」概念の成立が促されたという、カントーロヴィチのよく知られた話。このとき援用される「質料は入れ替わっても形相が同じなら、そのものは同一」という考えは、あらためて読んでみると、「永遠/永久/時間」の区別を廃棄してしまうジョルダーノ・ブルーノの発想とちょうど逆という印象。

ブルーノの場合、同一性を保証するのは形相ではなくて質料で、「形相はたえず変わるけれども質料が同じなので、そのものは同一」となる。このとき、中世の政治神学では質料(具体的な個々人)の多様性が消し去られ、形相(王国)の同一性=永久性が確保されることになっていたのに対して、ブルーノの場合、質料は無限であるとしていわば思考の外に追放されるので、たえず変化する多種多様な形相のほうが前景化されることになっている。ここには、フランシスコ会聖霊派などに見られるような中世天使論の直線的時間と、ブルーノに見られるアヴェロエス的な円環的時間との対比も関連していそうではあったり。

グラント

  • Iain Hamilton Grant, Philosophies of Nature after Schelling. (2006)

思弁的実在論の「ブルーノ問題」の発端になったイエイン・ハミルトン・グラント『シェリング以後の自然哲学』をぱらぱらとめくってみると、カント主義への批判を軸にしているあたり、なるほどカンタン・メイヤスーやレイ・ブラシエやグレアム・ハーマンと共通している。とはいえ、グラントがカント主義に対抗させて引き合いに出すのは(ヒュームでもライプニッツでもなくて)プラトン主義であり、そのプラトン主義をシェリングドゥルーズ経由で唯物論的に解釈して、超越論的なものと生成変化を折り合わせようとしているよう。

 岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学――生の多様性へ』、月曜社、2012年

→ 書きました。よろしければご覧のほどを



【目次】
はしがき
序章 ジョイス――憐れみの感覚
第一章 ディオ・デ・ラ・テッラ――人間と動物
第二章 セラピス――感情と時間
第三章 コヘレト――無知と力能
第四章 ペルセウス――善悪と共生
第五章 ヘレネ――芸術と創造
第六章 アクタイオン――生死と流転
終章 ブルーノ――生の多様性
附録 ジェイムズ・ジョイス「ブルーノ哲学」「ルネサンスの世界文学的影響」
あとがき
年譜/文献/索引


「世界の広がりと深みを放浪し、ありとあらゆる王国を探求せよ」(『英雄的狂気』より)。その先鋭的な宇宙観のゆえに異端宣告を受け、改悛を拒絶して生きながらにして火刑に処された16世紀イタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)。トマス・アクィナスの厳密さとルネ・デカルトの明晰さのはざまに生まれ落ちた彼は、はたして近代科学の先駆か、それとも古代呪術の末裔か。ブルーノが開いた〈近代〉を生の多様性の発見として再評価し、たえず変化し続ける動的関係に充ち満ちた〈無限宇宙〉の哲学を読み解く。ジェイムズ・ジョイスの2篇のエッセイ「ブルーノ哲学」「ルネサンスの世界文学的影響」の新訳を附す。


【紹介・書評・イベント】

  • 森元庸介氏による紹介、『REPRE――表象文化論学会ニューズレター』第15号、2012年5月
  • 檜垣立哉氏との対談「ヴィータ・ノーヴァ――新しい生命哲学と人間の新生」、ジュンク堂書店難波店(大阪)、2012年5月27日
  • (フ)氏による書評、『書標』2012年5月号
  • 山口信夫氏による紹介と合評、第39回ルネサンス研究会、同志社大学(京都)、2012年12月8日
  • 福島聡氏による短評、『みすず』2013年1・2月合併号「2012年読書アンケート」
  • 星野太氏による書評「無限に可塑的なる生」、『表象』第7号、2013年3月、270〜275頁
  • 山内朋樹氏による書評、『あいだ/生成』第3号、2013年3月、109〜113頁
  • 「新プラトン主義協会賞」受賞、2013年9月21日
  • F. C. 氏による書評(イタリア語)、Bruniana & Campanelliana, anno XIX, 2, 2013, pp.551-552.


【ERRATA】

目次(4頁)
誤】第三章 コヘレト――無知と力
正】第三章 コヘレト――無知と力能

90頁最終行
誤】なに一つ快適ものはなく、
正】なに一つ快適なものはなく、

107頁14行目
誤】たとえその支配関係が慣習によるものすぎず、
正】たとえその支配関係が慣習によるものにすぎず、


【せっかくなので一緒に読むと面白い書物10冊】
ジョルダーノ・ブルーノの訳書と研究書について基本的なことはすでにこちらにまとまっていますので、ここでは個人的なオススメ書物を。

ハンス・ブルーメンベルク『近代の正統性(全三冊)、斎藤義彦、忽那敬三、村井則夫訳、法政大学出版局、1998-2002年

ブルーメンベルクの主著として名高い書物ですが、その最終章はブルーノ研究としても圧巻の一言。

エレーヌ・ヴェドリーヌ『ルネサンスの哲学二宮敬、白井泰隆訳、白水社文庫クセジュ、1972年

ひとまずルネサンスの哲学にかぎって概観したいとあらば、類書は複数あるものの、個人的にはこれ。

エドガー・ウィント『ルネサンスの異教秘儀田中英道ほか訳、晶文社、1986年
ジョルジョ・アガンベンスタンツェ岡田温司訳、ちくま学芸文庫、2008年

概説はいいからもっと本格的にルネサンスの哲学を・・・というなら、この2冊から繙くのが良いかと。芸術にも興味があればなおのこと。

木村俊道『文明の作法ミネルヴァ書房、2010年
ツヴェタン・トドロフ他者の記号学及川馥ほか訳、法政大学出版局、1986年

芸術よりもむしろ倫理や政治に関心のある向きは、たぶんこの辺が。

ジョン・トーランド『秘義なきキリスト教三井礼子訳、法政大学出版局、2011年
シェリングブルーノ茅野良男訳、『フィヒテシェリング』(世界の名著続9/中公バックス世界の名著43)所収、中央公論社中央公論新社、1974年/1980年
田中純アビ・ヴァールブルク青土社、2001年/2011年
宮田恭子『ジョイスと中世文化みすず書房、2009年

ブルーノ哲学の残存に興味をもったら、いろいろありますが、たとえばこのあたり。


【もっと気軽に一緒に読める小説3篇】

ベルトルト・ブレヒト「異端者の外套」(『暦物語』)

ヴェネツィアの仕立屋夫婦、このまえ外套を卸したばかりのジョルダーノ・ブルーノが、まだ支払いを済ませてないのに異端審問所に捕まったと聞いて・・・。

ウォルター・ペイター『ガストン・ド・ラトゥール』

ロンサールに憬れ、モンテーニュの薫陶を受けた青年ガストンは、宗教戦争のためなおも混乱するパリでジョルダーノ・ブルーノの演説を聞く・・・。

ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク

要約不可能。でも随所にジョルダーノ・ブルーノとその思想への暗示が鏤められ、またそれを文体において実践してもいます。

鈴木雅雄

シュルレアリスムの理論と実践(とりわけ実践)をさながら新たな共同体論として読み解いていく趣の書物。いっさいの超越的な審級を廃したうえでいかにして共同する(ともにある)ことができるか、という問いをシュルレアリストたちの実際の実践にまで深く踏み込んであとづけていてとても面白く読めるが、そのとき軸になっている「真実(真理)」と「現実(実在)」のあいだで生じる「痙攣」という話が、どうしてもロラン・バルトの『明るい部屋』の問題機制に重なって見えてしまう。そういえばバルトのコレージュ・ド・フランス講義も『いかにしてともに生きるか』というものだった。

アルキエ、シェニウー=ジャンドロン

スタロバンスキーはけっこうざっくりとロマン主義の後継に位置づけていたシュルレアリスムの想像力論、実のところはもう少々複雑なわけで、スタロバンスキーの論考を参照しているシェニウー=ジャンドロンも、そしてアルキエの古典的研究も、むしろシュルレアリスムの二面作戦を指摘する。シュルレアリストたちによれば、想像されるものとしての〈超現実〉とは、ロマン主義(あるいはグノーシス主義やヘルメス主義)が考えるのような人知や自然を越えた世界のことではないし、また同時に、ある種の心理主義や科学実証主義が考えるような、たんなる人間の一精神状態のことでもない。このいずれも「想像/現実」「意識/行動」といった誤った区別にもとづいて、超現実をどちらか一方の領域のみに実体化してしまっているという。アルキエはこれを究極の「内在主義」として描き出して(批判して)いたりもするけれど、想像することがそれ自体で一つの現実的な行為であるという、理論それ自体を実践と見なす視点がこのシュルレアリスムの想像力論を支えているように思う。

伊藤博明、スタロバンスキー

イタロ・カルヴィーノによる要約がジャクリーヌ・シェニウー=ジャンドロンによる要約と微妙に違う(大筋では一緒だけれど)と思っていたジャン・スタロバンスキーの想像力論、実際に一通り読んでみると、ジョルダーノ・ブルーノへの着目の仕方がカルヴィーノ独自のもののよう。スタロバンスキー自身は、これまたロベール・クラインの研究に依拠して、ブルーノを自然哲学的な想像力論(現実の産出としての想像)の系譜の端緒に位置づけて、認識論的な想像力論(現実の反映としての想像)の系譜に対置しているが、カルヴィーノはブルーノをこのどちらでもない位置(アルゴリズム的想像力?)に置いている。

伊藤博明、スタロバンスキー

ジャン・スタロバンスキーの名高い想像力の概念史研究を読むかたわら、『ルネサンスの神秘思想』がめでたく文庫化されたので、復習とばかり再読中。宗教と哲学をきっぱり分けてしまうジョルダーノ・ブルーノ(やその後のスピノザ)と違って、それ以前のルネサンスヒューマニスト人文主義者)たちはこじつけめいたことをしてまでキリスト教ギリシア哲学の一致(そしてヘレニズム期に習合されたエジプトやシリアやペルシアの秘儀なども)を論じる(まるでスピノザの時代の穏健なデカルト主義者たちがキリスト教デカルト哲学の一致を論じたように)。今からしてみるとほとんど遁辞にしか見えないにせよ、なぜそこまでして一致にこだわったのかと考えてみるに、実はここで重要なのは、「真理は一致している」という主張それ自体よりも、むしろその一致が前提にしている「真理は複数の仕方で語られうる」という発想のほうだろう。唯一の仕方でしか真理が語られないのだとすれば、そもそも一致など論じる必要はないのだから。おそらくルネサンスヒューマニストたちがスコラ哲学に向けた批判の争点は、この言語と真理との関係にあるように思う。

言語と概念とのあいだに透明な対応関係があり、その概念が真理を言い表す――このことはけっして自明ではない。だから、ヒューマニストたちは論理学よりも修辞学を重視する。ミシェル・フーコーがフランス哲学を「主体の哲学」と「概念の哲学」に分けたことは有名だけれど、こうした(近代フランス哲学に限られない)視野から眺めてみると、ミシェル・セールのように「概念の哲学」と「物語(アルゴリズム)の哲学」に分けてみたほうが示唆的なようにも思えてくる。セールがこのところ「ヒューマニズム」を掲げているのは、もちろんミシェル・ド・モンテーニュの継承という意味もあるだろうけれど、実のところ、言語と概念と真理の一対一対応を疑って多様な神話と物語の深みに降りていったルネサンスヒューマニストたちの考え方からしても、妥当な呼称と言えるかもしれない。