The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

星野太『食客論』

星野太『食客論』、講談社、2023年

 人の群れは得も言われぬ魅惑と嫌悪を引き起こす。話すため、食べるため、寝るため、人々は互いに集まり、また互いを避ける。その複雑で曖昧な関係を、本書は「寄生 parasite」の概念でもって、そして寄生する「食客 parasite」の形象において、描き出していく。そうして示されるのは、さしあたって贈与論と他者論の裏面と言えよう。だがさらに、飲食と会話、味覚と言語、感性と理性が交錯する「口唇」のトポスにまつわる美学的問題群の輪郭でもあろう。

 本書によれば、今日しばしば語られる共生は実のところ目標というよりも事実だという。しかも「共生」を語れるほどの明確な自他ないし友敵の区別のない、もっと曖昧で振幅のある「寄生」と見なすべきという。

 この寄生の形、寄生する食客の姿が、まずはロラン・バルトの、および彼が論じたブリア=サヴァランとフーリエの描く食卓のありように探られていく。人間は動物であるから食事をするというのに、食卓の作法は、人間がいかに動物を脱け出て、社会化したか――その社会像は保守的なブリア=サヴァランと革命的なフーリエとで対照的ではあれ――を示す。それというのも、食客の根本が口を介した食物と言葉の交換であるからだ。

 ついで、ルキアノス食客』を通して、口を媒介に食物と言葉を交換する食客のありようが、哲学者とソフィストの対立を突き崩すものとして捉えられていく。言うなれば、哲学と弁論術、論理と修辞の対立に覆い隠されていた「生」の次元が、ここで明るみに出されているように思う。この次元にいるのは、友でも敵でもない中間的な他者だ。そのような他者の形象として、本書ではキケロの海賊もディオゲネスの異人も読み直されていく。

 かくして寄生という関係は、単純な食う食われるの力関係ではなく、一方的な搾取でもありえず、配慮や気遣いに満ちた繊細なものであることになる。本書で「存在論的口唇論」という名称で呼ばれているのは、そうした無限なまでに繊細なニュアンスを「口唇」の多義性において把握する試みである。そのニュアンスは、九鬼周造を通して偶然の味わいとして理解され、その偶然の運び手は北大路魯山人を通して人間から坐辺の物へと拡張される。とはいえその後、石原吉郎にいたって、口は食物でも言葉でもなく酒と茶に向けられ、他者が、関係が、消えるにいたる。

 パラサイトの条件は、本書にしたがうなら、いるべきでないところへ移住し、かくあるべきという法を侵犯し、けっして同化も安住もしないこと、の三つに集約される。そのような者たちは、対話できるにしても、包摂も排除もできない――包摂も排除もできないが、対話はできる。そうした食客の寓話として、最後にポン・ジュノの映画『パラサイト』とハーマン・メルヴィルの小説『バートルビー』が読み解かれている。翻って、バルトの晩餐から石原の茶会まで、本書に描き出された寄生する食客たちの姿は、さながら転生を繰り返す寓話の登場人物のようだ。その人物は、どちらかといえば主役というよりも脇役にふさわしく、でもふとどこかですでに出会っていたかのような印象を与え、記憶を攪乱するがゆえにこそ思い出に残る。