The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

伊藤博明、スタロバンスキー

ジャン・スタロバンスキーの名高い想像力の概念史研究を読むかたわら、『ルネサンスの神秘思想』がめでたく文庫化されたので、復習とばかり再読中。宗教と哲学をきっぱり分けてしまうジョルダーノ・ブルーノ(やその後のスピノザ)と違って、それ以前のルネサンスヒューマニスト人文主義者)たちはこじつけめいたことをしてまでキリスト教ギリシア哲学の一致(そしてヘレニズム期に習合されたエジプトやシリアやペルシアの秘儀なども)を論じる(まるでスピノザの時代の穏健なデカルト主義者たちがキリスト教デカルト哲学の一致を論じたように)。今からしてみるとほとんど遁辞にしか見えないにせよ、なぜそこまでして一致にこだわったのかと考えてみるに、実はここで重要なのは、「真理は一致している」という主張それ自体よりも、むしろその一致が前提にしている「真理は複数の仕方で語られうる」という発想のほうだろう。唯一の仕方でしか真理が語られないのだとすれば、そもそも一致など論じる必要はないのだから。おそらくルネサンスヒューマニストたちがスコラ哲学に向けた批判の争点は、この言語と真理との関係にあるように思う。

言語と概念とのあいだに透明な対応関係があり、その概念が真理を言い表す――このことはけっして自明ではない。だから、ヒューマニストたちは論理学よりも修辞学を重視する。ミシェル・フーコーがフランス哲学を「主体の哲学」と「概念の哲学」に分けたことは有名だけれど、こうした(近代フランス哲学に限られない)視野から眺めてみると、ミシェル・セールのように「概念の哲学」と「物語(アルゴリズム)の哲学」に分けてみたほうが示唆的なようにも思えてくる。セールがこのところ「ヒューマニズム」を掲げているのは、もちろんミシェル・ド・モンテーニュの継承という意味もあるだろうけれど、実のところ、言語と概念と真理の一対一対応を疑って多様な神話と物語の深みに降りていったルネサンスヒューマニストたちの考え方からしても、妥当な呼称と言えるかもしれない。