沼野雄司『エドガー・ヴァレーズ』、春秋社、2019年
かつて初めて聴いたエドガー・ヴァレーズの《イオニザシオン》はまったくの支離滅裂な音の羅列に思えて困惑したが、あるときそれが自在に音の躍動する一つの空間として立ち現れて、爾来、ヴァレーズの音楽に魅了されている。このヴァレーズの伝記はウェブ連載されていたときから毎回楽しみに読んでいて、書物として上梓されたときもすぐさま読んだのだった。
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ヴァレーズが若き日に夢見たことを、テクノロジーがまるで後を追うようにして可能にして、晩年に実現してしまうさまは、あらためて芸術の歴史性の不思議さを感得させる。予言者としての前衛芸術家というにはあたらない。みずから予言を成就してしまうのだから。それはヴァレーズがなにより自身の直観に忠実でありつづけたことの賜物だろう。とはいえ、音楽における空間性を投射のメカニズムで操作するというヴァレーズの試みは、全面的にテクノロジーの進歩に由来するというよりも、むしろルネサンス・バロックの古楽への造詣の深さにつながっている。
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ヴァレーズの生涯を追いかけていると、その姿が思いがけずマルセル・デュシャンに重なる。ヴァレーズ1883-1965、デュシャン1887-1968と、ほぼ同世代で、同じ第一次世界大戦中の1915年にフランスからアメリカに渡っており、作品数はごく少ないながらもコンセプトが革新的で、なにより人々を魅了する人柄もあって、芸術界の空気と土壌を変えてしまった。同じく機械やテクノロジーに関心を向けているが、それはそのまま言語以前の原始的なもの、プリミティヴなものへの関心と同一である。実際にヴァレーズとデュシャンの交友範囲は重なっている。