吉田健一『文学概論』、講談社文芸文庫、2008年(初版1960年)
言葉はただの一語でも、文の断片でも、それで一つの全体をかたちづくり、自然の秩序とは別の秩序を打ち立てる。そうした言葉の全体性を、吉田健一は、意味や定義へと縮減してしまうことを周到に回避し、歴史上それがそう使用されたというすべてを言葉に包摂していく。本書は、章立てこそ「言葉」「詩」「散文」「劇」という文学のジャンル論になってはいるものの、一つの徹底した非還元主義的な言語哲学の試論として読まれるべきものであろう。
吉田健一からすれば、小説が人物を形象化するのであっても、哲学が概念を形象化するのであっても、そこでの言葉のはたらきに違いはない。つまるところ言葉で語られるすべてが文学であり、言葉はそれがそう使用されたすべてであるとされる。そのように理解された言葉は、ただ意味や知識を伝達するものではない。われわれを納得させ、われわれにひとりの人間を感得させるものだ。
そのうえで、吉田健一にしたがうなら、詩は自由の状態にある言葉で、散文は精神の運動としてある言葉で、劇は人間の抵抗による言葉であるという。詩は世界でありつつそのままで行動でもあり、ゆえにしばしば行動に駆り立てもする。散文は見ること描くことで、そうして認識をもたらす。劇は対立のなかから人間が言葉を発するその発生の場である。言葉はつねに何かに抗って、自然の秩序に逆らってこそ、発せられる。そうであれば、対立を飼い慣らす文明は、もし行き過ぎれば、人間を消滅させてしまうだろう。
いずれにせよ、言葉が言葉として十全にはたらくとき、言葉はそれを使用する生のものであることになり、生きることそのものと区別できなくなる。本書でかたちをなしつつあったこの吉田健一の言語哲学は、しだいに文学以外にも拡張されていき、やがて『ヨオロッパの世紀末』のような文明論へ、そして『時間』のような生の哲学へと結実していったように思う。