The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

吉田健一『文学の楽しみ』

吉田健一『文学の楽しみ』、講談社文芸文庫、2010年(初版1967年)

 文学をその楽しみにおいて理解するとは、言葉をどこまでもその過程のなかで把握することだ。それゆえ本書ではあらゆるかたちの還元主義的な文学理解が斥けられていく。過程のなかで把握される言葉は、形式と内容とに分離してはいない。吉田健一が「文学は学問ではない」と述べるのは、学問=知識としての文学の内容だけをその形式から抽出するなら言葉はその過程を失い、ゆえに魅力を失ってしまうからだ。言葉の魅力はその息づかい、呼吸にあり、呼吸と一つになった言葉が文体であるという。風景を描くのであれ、近代の空虚を嘆くのであれ、それを語る息づかいが魅力をもつのは、文学も友人も変わらない。

 言葉をその全面的なはたらきにおいて把握するには、精神を全面的にはたらかせる必要がある。文学を楽しんでいるとき、他のことはまったく考えない。そこから吉田健一は、知的・抒情的・意志的といった文章の分類とあわせて知・情・意という精神の分類も斥ける。全面的にはたらくものをそのようにこま切れにするのは、皮膚の色で人間か否かを考えるにも等しいという。吉田がまた唯物論を斥けるのも、それが還元主義的な発想であって、言葉と精神の全面的なはたらきを限定してしまうからだ。分析はすべて斥けられ、徹底した総合がおこなわれる。

 チェーホフによれば、雨が降っていれば雨が降っていると書けばいいことになる。だが吉田健一からすれば、チェーホフの言う雨は科学から見て限定された雨であって、雨という言葉の全体をはたらかせる文学の雨ではない。チェーホフトートロジーが何か一つの「文字通りの意味」なるものに還元するのとはまったく逆に、吉田がしばしばもちいるトートロジーは雨なら雨という言葉の歴史性から来る含意すべてを包摂するものだ。詩は歌い、散文は考える文章だと、ひとまずは区別できたとしても、言葉はつねに全面的にはたらこうとして、詩も散文も一つの世界をつくる。

 文学といえば小説となってしまったのは、吉田健一によれば、小説が人間とその行動を描くもので、人間はいつどこの人間でもさほど違わないため、小説を読むことには詩や批評などよりも予備知識が少なくて済むからだろうという。しかし言葉が全面的にはたらいて一人の人間を出現させるのは、小説か否か、軟文学か硬文学か、といった分類には関わりがない。そしてその出現する人間はまるごと生きた一人の人間でなければならず、性格や信条や行動を合成してもできはしない。これは人間を思想、一本の木、昔見たボッティチェッリの絵にしても、同じことだ。

 牧谿の絵が世界を象徴する一方で、ティツィアーノの絵は世界を創造しているように、東洋でははじめから象徴主義が展開されたが、西洋では近代になって象徴主義に達したという。近代性は象徴主義と別のものではない。吉田健一河上徹太郎を踏まえて、林檎が赤いと言えば林檎が赤いことだけを理解し、鋤を鋤と呼ぶ「自然人」に対して、近代人にして象徴主義者たる「純粋人」はそこに赤い林檎の影の紫、鋤の影や光沢までを含意させる、とする。これはチェーホフの雨と吉田の雨との相違を言い当てるものでもあるか。ともあれ東でも西でも文明の域に達した人間は象徴主義者になる。

 言葉の全面的なはたらきによって成り立つ文学が結局のところジャンルや性格で分類しえないように、「古典」かどうかという分類もありえないものであって、そうしたものは作品に接する妨げにしかならない。もし「古典」と言うのであれば、その範囲は文学の全体と一致し、文学の全体は言葉の世界のすべてを覆い、これは人間の経験しえたあらゆることと別のものではない。

 西洋においても人間は人間であって、その精神自体に特別なところはないにしても、万事において普遍性の観念を引き出さずにはいないその精神のはたらきの仕方は一つの独自の世界を形成するに足るものだという。たとえば恋人が全世界になるというような恋愛の観念は、西洋ならではのものだ。そして恋愛でも、オデュッセウスでも、理性でも、それは一個の作品や一人の作者によってだけでなく、それらに言及したすべての作品と作者によって形成されている。そのように、ヨーロッパ文学は壮麗な建築としてある。

 何の役に立つのかという問いは人間のすることなすことにつきまとうが、楽しみはそれ自体で充足していて、それ自体で求められるものだ。吉田健一によれば、言葉を極限にまで生かす文学の営為は、そうすることでしか知りえないものを認識させ、その認識が美をもたらし、楽しみを与える。この認識は、知識とそれを知る行為とに分離される以前の「影像」だが、そうして認識されるのはつまるところ生そのものだ。言葉をまるごと生かすことは、人間の全体、人生それ自体の表出にほかならない。文学は生命の表現であるとは、言い古されたことであっても、変わることなく真理である。

 吉田健一は文学と生活を対立させる発想をはっきりと斥け、「我々の生活に文学の世界が続いている」とする。しばしば生活よりも文学のほうが生き生きとして現実的でありうるとしても、そもそもの現実が認識と分かちがたく、認識もなくただ流れるだけのところには現実がなく、言葉をまるごと生かして認識されるところにこそ現実があるゆえに、そうなるのだ。現実は物理的かどうかということとは無関係で、およそ存在するもののなかで物理的なものはごく一部にすぎない。現実とは親しむものであって、だから文学がわれわれの周囲に目を開かせ、われわれの生活が文学によって拡げられることになる。

 文学にとっての新しさとは、一回かぎりの新しさではなく、毎回変わらぬ新しさのことだと、吉田は言うが、これは生命の刻々の新しさ、親しむほど見いだされていく現実の豊かさと別のものではない。何か役立つ情報を得るつもりで本を読みはじめても、その新鮮な印象のほうが勝って、結局は有益というよりも端的にいい本だということになったりする。新しさはそれほどの魅力をもつ。とはいえ、そうした新しさはそれ自体として目指すことのできるものではなく、新しさ自体を求めて文学を書こうとしてもどうにもならず、生きた言葉の属性として結果的にもたらされるほかない。

 つまるところ文学の楽しみは生きる喜びと別のものではない。現実が認識と分かちがたいように、生きることは生きる喜びを知ることと同じである。目が見えるとは見るものに喜びを感じることだ。それだから吉田健一は、怒りや悲しみであっても、その適確な表現は生命の表出であって、根底には喜びがあると言い、悲劇もまた生の賛歌であるとする。喪失を嘆くとき、その嘆きの表現によって、失われたものがふたたび出現するのだ。そうして文学は生活と連続し、人生を延長していく。このような生命と認識と享受の一体化こそが、生の形式をなすのだろう。

 文学を読むには自分で読むしかなく、音楽を聴くには自分で聴くしかないように、孤独がいわば根本的な人間の条件だ。詩を読んでも役に立たない、人生の苦境から脱け出せないと言うことは、友人と話しても自分の問題が解決しないのと同様で、自分のことを文学や他人に押しつけるのが筋違いであり、自分のことは自分でするほかない。だから文学を読むとき、音楽を聴くとき、人間は自分自身に立ち戻り、沈黙がたちこめる。このとき、自分はすべての人間と同じ一人の人間になる。この孤独は精神の集中そのものだ。そして分析も分解もできない純一な幸福だ。