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岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

美学の今世紀——読書案内

 「感性的認識の学」、すなわち知性に対する感性のはたらきを扱う学問として創始された美学は、概念へと規定される以前の思考を問題にするがゆえに、長らく芸術をこそ特権的な考察対象にしてモデルとしてきた。概念以前の思考となれば、言葉によって明晰判明に語られたのとは異なる比喩形象、造形物、身体動作などに注目することは、当然のなりゆきだろう。先頃文庫化されたバウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten, 1714-1762)の『美学』(松尾大訳、講談社学術文庫、二〇一六年〔原著一七五〇〜五八年〕)からして、詩作品への言及が多い。したがって一九世紀前半、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)が美学講義をした頃には、美学がほとんど「芸術哲学」と同義になっていたのも、ゆえなきことではない。

 とはいえ、二一世紀に入ってからの美学の動向は、そのように芸術哲学へと縮小してしまっていた美学を、ふたたび原義通りの「感性論」へと拡大するものだ(周知の通り、「美学」のラテン語名称「Aesthetica」は、「感覚・感性」を意味するギリシア語の「aisthesis」から命名された)。この動向は二〇世紀末から活発化して、バウムガルテンらの古典的著作の読み直しにとどまらず、近年躍進のめざましい認知科学の諸分野との協働/対決を美学にもたらしている。神経美学や進化美学といった動向である。それと同時に、観光が世界最大の産業になりつつあり、あらゆるものがスペクタクルとして美的・感覚的に消費される現代文明のありようも、感性論たる美学にとって重要な考察対象だ。社会美学や政治美学、あるいは環境美学などの動向が興起しているゆえんである。この点では美学は、隣接する美術史・芸術学に加え、表象文化論・メディア論・文化研究・社会学文化人類学といった分野とも連動している。以上の消息は、カロル・タロン=ユゴン(Carole Talon-Hugon, 1959- )の『美学への手引き』(上村博訳、白水社文庫クセジュ、二〇一五年〔原著二〇〇四年〕)が簡潔にして明快な見取り図を与えてくれる。

 他方で、芸術自体がコンセプチュアルなものになっている現在、芸術をモデルにした思考も、狭義のディシプリンとしての美学を越えて広がり、依然として生産的でありつづけている。スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek, 1949- )がヒッチコック映画から次々と洞察を引き出していくさまは、前世紀末に颯爽とあらわれて強い印象を与えたが、今世紀に入ってからも、たとえばより若い哲学者のエリー・デューリング(Elie During, 1972- )やマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980- )らが映画やテレビ・ドラマから強靱な哲学的思弁を立ち上げている。さらには、今日の芸術はしばしば社会的関係性に強い関心を寄せていることから、哲学者の思考実験の材料となるのみならず、社会運動や政治政策の実地試験のごとく機能してもいる。ときには自然科学も、「アート」と名乗ることによって、より自由な研究活動への憧れを満たそうとする。その意味では、美学が芸術哲学から離れていった裏側で、芸術はますます多くの場面で思考のモデルになってきている。「新しい実在論」の書として反響を呼んだガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳、講談社選書メチエ、二〇一八年〔原著二〇一三年〕)が、「芸術の意味」と「テレヴィジョン」の話題で締め括られていることは示唆的だ。編籠や握斧から時計に線描まで、文化人類学的に人間の制作行為のありようをたどったティム・インゴルド(Tim Ingold, 1948- )の『メイキング』(金子遊ほか訳、左右社、二〇一七年〔原著二〇一三年〕)も、実践知としての芸術(と建築)が人類学(や考古学)に親和的であると力強く主張し、この書物自体を芸術作品のごとき生成変化の道具と見なしている。

 現在進行形の美学は、この広がり、この振幅において把握されるべきだろう。つまり、一つには芸術哲学から感性論への回帰がある。それは、かたや認知科学をはじめとした自然科学への接近と、かたやかつてなく「美的なもの」に変貌した現代文明への診断と、この両軸のあいだで展開している。もう一つには芸術をモデルにした思考の拡散がある。哲学も社会も政治も科学さえも、芸術によって思考しはじめたかのようなのだ。

 以下、今世紀の美学への案内図としていくつかの書物を並べよう。案内図であるからには簡便さを旨とすべく、さしあたり今世紀の書物(海外のそれは邦訳のあるもの)に限定する。繰り返し読むべき古典については、たとえば当津武彦編『美の変貌』世界思想社、一九八八年)に当たられたい。

 

一 感覚、自然――感性の脱人間化

 

① ヴィンフリート・メニングハウス『美の約束』伊藤秀一訳、現代思潮新社、二〇一三年〔原著二〇〇三年〕)

② ルノート・ベーメ『感覚学としての美学』(井村彰ほか訳、勁草書房、二〇〇五年〔原著二〇〇一年〕)

③ ミシェル・セール『人類再生』(米山親能訳、法政大学出版局、二〇〇六年〔原著二〇〇一年〕)

④ 秋庭史典『新しい美学をつくる』みすず書房、二〇一一年)

 

 美学の自然科学的アプローチはなにも昨今はじまったことではない。一九世紀のフェヒナー(Gustav Theodor Fechner, 1801-1887)による実験美学以来のものだ。近年の達成については、渡辺茂『美の起源』共立出版、二〇一六年)などで概観できる。このとき理論的に注目される点は、感性の研究がしだいに人間の主観性のそれから脱却しつつあることだろう。哲学的美学の「上からのアプローチ」と自然科学的美学の「下からのアプローチ」とのあいだには、いまだ大きな溝がある(それゆえ一方が他方のアプローチを不要にすることはありえない)にせよ、いずれにも感性の脱人間化へと向かう動きが見られるのは興味深い。

 上からと下からの両アプローチの溝を巧みに跳び越えた著作として、まず①の『美の約束』を挙げよう。マックス・プランク経験美学研究所の創設にもたずさわったヴィンフリート・メニングハウス(Winfried Menninghaus, 1952- )は、ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809-1882)および彼以後の性淘汰理論を美学として読解し、美と性との幾重にも捩れた関係を剔抉する。美はどこまで個と種の生存戦略として理解できるのか。ダーウィン自身がバーク(Edmund Burke, 1729-1797)の美学から幾多の示唆を引き出していたように、進化美学の諸理論は、古代ギリシアアドニス神話から現代心理学のアドニス・コンプレックス説までとつねにすでに交差している。その交差点からメニングハウスは、ダーウィンをもとにフロイトを再読したかと思えばカントをもとにダーウィンを再考して、縦横に自在に考察を進める。美しくあることが社会的義務になってしまったかのごとき現代文明の美の病理にまで、その筆は及ぶ。

 ②の『感覚学としての美学』は、感性の脱人間化を体系的に押し進めた美学書の一つだ。ゲルノート・ベーメ(Gernot Böhme, 1937- )の思索の基盤には、ヘルマン・シュミッツ(Hermann Schmitz, 1928- )以来の新現象学運動があり、昨今の生態学的発想と親和性が強い。主体が客体を認識するという図式から脱け出て、まずは「雰囲気」が生起してそこから主観と客観が分節化されていくさまを問い、感性の在処を雰囲気としての世界の構造へと拡張する。このとき示唆的なのは、事物が「脱自」によってみずからの属性を現実活動に差し出す、とする点だろう。ともすれば現代の脳科学が旧弊の独我論へと逆行してしまうことがあるのに対して、事物の行為主体性を理論化しているところが眼を惹く。ベーメには日本語独自の論文集『雰囲気の美学』(梶谷真司ほか編訳、晃洋書房、二〇〇六年)もある。こちらは応用編といった趣で、豊富な事例が扱われており、『感覚学としての美学』よりも読みやすいかもしれない。

 今世紀に入ってめざましい深化を見せるミシェル・セール(Michel Serres, 1930- )の哲学は、とくに③の『人類再生』で、美学にも重要な示唆を与えてくれる。セールは人類の文化と認識の発展の起源を、最初期の技術たる動物の家畜化(正確には人間と動物の「相互飼い慣らし」)に見いだす。その要となったのは、分節言語によらない外観の――しばしばきわめて美しい――表出によるコミュニケーションであるという。こうした言葉以前の感性的なやりとりは、現代では無用のものになっているどころか、セール言うところの「出ダーウィニズム」の作用にしたがって、科学技術を通して種々様々なデータへと翻訳されて地球規模の集団組織の根幹になり、いっそう緊密で重要なものになっている。『人類再生』は、セール哲学の一つの集大成たる〈大きな物語〉四部作の第一巻だ。第二巻『白熱するもの』(豊田彰訳、法政大学出版局、二〇〇七年〔原著二〇〇三年〕)、第三巻『小枝とフォーマット』内藤雅文訳、法政大学出版局、二〇〇六年〔原著二〇〇四年〕)、第四巻ヒューマニズムの物語』(二〇〇六年、未邦訳)もあわせて読むなら、巨大なアルゴリズムとして展開する世界そのものが「目的なき合目的性」(カント)を示すすぐれて感性的なものでもあると、看取できるだろう。

 アルゴリズムとしての世界のありようから構想された美学では、④の秋庭史典(Fuminori Akiba, 1966- )による『あたらしい美学をつくる』も挙げたい。美学はたんに「美」を定義するだけの学問ではなく、伝統的には「真」(科学)と「善」(倫理)とを結節する蝶番のはたらきを遂行してきた。その役割を現代科学の提起する自然観にあわせて更新する本書は、美学の道具立てをカント的な人間主観の判断(比較・包摂)からライプニッツ的な世界の情報の操作(自然計算)へと転換することで、フォルムの美学をアルゴリズムの美学へと拡張し、多様性と調和の価値を把握するための基礎を築く。自然科学から新しい考察材料を受け取ることに終始せずに、自然科学と協働できる美学を(再)構想するという、野心的な試みである。

 ひとこと附言しておけば、伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社新書、二〇一五年)にうかがえるごとく、人間の感性も、まだまだ未開拓の部分の多い、なおも発見に満ちた研究主題であることに変わりはない。こちらのさらなる探究も注視したい。

 

二 身振り、関係性――美的文明での生存

 

⑤ ジャック・ランシエール『解放された観客』(梶田裕訳、法政大学出版局、二〇一三年〔原著二〇〇八年〕)

⑥ ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について』(荒金直人訳、以文社、二〇一七年〔原著二〇〇九年〕)

⑦ ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』(上村忠男訳、みすず書房、二〇一六年〔原著二〇一四年〕)

⑧ 田中純『政治の美学』東京大学出版会、二〇〇八年)

 

 美しさが(ないし恰好よさ・滑稽さ・醜さなどが)人間関係に及ぼす影響の大きさは、言を俟たない。魅了・安堵・嫌悪・畏怖といった情緒は社会的紐帯としてはたらくがゆえに、それらを惹起し操作する芸術はプラトンからしてすでに共同体の問題と捉えられてきた。美しくあることが社会的成功を約束してくれるかのように人々が美容と健康に血道を上げ、観光や芸術文化こそが世界経済を動かしつつある現代でも、それは変わらないばかりか、いっそう加速しているように見える。前世紀にベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)が示唆したファシズムの「政治の審美化」とコミュニズムの「芸術の政治化」、あるいはドゥボール(Guy Debord, 1931-1994)の指摘した「スペクタクルの社会」を引き継いで、今世紀の美学も、政治の根底に感覚・欲望・想像のはたらきを見いだし、また芸術の存在そのものに政治性を認めている。昨今、日本も含めて世界各地で芸術祭が次々と開催されており、そこに出展された社会関与型芸術の作品が社会的・政治的な問題提起をおこなうことも少なくない。

 政治と芸術とに通底する美学となれば、まずは⑤のランシエール『解放された観客』を挙げねばならない。『感性的なもののパルタージュ』(梶田裕訳、法政大学出版局、二〇〇九年〔原著二〇〇〇年〕)以来、政治哲学と美学とを架橋する著書をいくつも上梓してきたジャック・ランシエール(Jacques Rancière, 1940- )によれば、政治とは、政策決定や権力闘争であるよりもまえに、人々が何をどのように感覚するかに関わるものだという。意見や見解の対立以前に、感覚の仕方自体の相異が根本的な政治的争点になる。とはいえ、今日の社会関与型芸術がその理論的前提としてしばしばランシエールを参照するのに対して、ランシエール自身は本書『解放された観客』でむしろ、芸術がつねに直接的な社会関与・政治参加に失敗し挫折することに眼を向けている。芸術はまさに感覚されるものの操作であるがゆえにそれ自体ですでに政治の実践であって、ことさら社会運動や政治活動の体裁を取るならその政治的特質を失ってしまう。逆に、ランシエールによれば、芸術は社会関与・政治参加に失敗することによってこそ、逆説的ながらよりよく政治をおこなえるという。芸術と政治の安易な同一視に陥ってしまわぬよう注意したい。

 ⑥のブリュノ・ラトゥール(Bruno Latour, 1947- )の『近代の〈物神事実〉崇拝について』は、話題になった二〇〇二年の展覧会『イコノクラッシュ』展の図録序文も併録して、さらに広く科学・宗教・芸術の領域ではたらく感性の政治性を理解させてくれる。ものごとに対して絶対的な客観性(虚構なしの事実)か社会的な構築性(事実なしの虚構)かという二者択一を迫る近代的発想は、媒介としてのイメージや人工物を理解できなくしてしまい、〈客観/主観〉〈自然/人間〉〈自然科学/人文科学〉といった分断を生み出す。それによって、激しい情念を掻き立てるイメージはかえって暴走してしまう。人間たちの葛藤や紛争のどれほど多くが、直接的な暴力の応酬である以上に、イメージをめぐっての諍いであることか。事実はイメージに左右されないものであるはずなのに、現代文明にはイメージが溢れかえっており、イメージ批判はイメージよりも人々を傷つける。この状況から脱却すべく、ラトゥールは二者択一の発想に代えて、構築されているほど客観的になるという非近代的発想を「物神事実」という概念にまとめあげる。厳然たる「事実」は作られた「物神」と一体である。かくして人間と非人間とが巨大なネットワークを形成しているさまが浮かび上がる。「物神事実」とは一八世紀のヴィーコ(Giambattista Vico, 1668-1744)の哲学を彷彿とさせる指摘たが、ラトゥール自身はこの概念を、二〇世紀の美学者スーリオ(Étienne Souriau, 1892-1979)が芸術のはたらきに典型的に見た「創設」の概念にきわめて近しいものと述べていて、興味深い。

 ⑦の『身体の使用』は、ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben, 1942- )が近代の生政治の診断として二〇年来書き継いできた「ホモ・サケル・シリーズ」の最終巻にあたる。政治権力が人々の生物学的な生命そのもの(「剝き出しの生」)の管理に照準を定めていることを描き出すアガンベンの手並みは鮮やかで、それだけにかえってその政治哲学の根底にある美学(「生の形式」)の重要性が看過されがちであるように思う。本書でアガンベンアリストテレス以来の「生成の存在論」を批判しながら提起する「様態の存在論」は、美学の分野で久しく論じられてきた様式(スタイル)と手法(マニエラ)の理論を存在論へと拡張するものであることに留意したい。わたしたちがなにかを使用する仕方には、各人のスタイルがあり、マニエラがある。わたしたちの個性をかたちづくっているのは、プライヴァシーとしてしばしば隠されるような各人の本質や本性なるものなどではない。他者の眼に常日頃からさらされている個々の仕草であり、日常的な身振りなのだと、アガンベンは言う。こうした個別的な身振り、「所有なき使用」が、自己の知も力も及ばない対象との適切な――「優美」な――関係を築き、愛の経験において共同性を打ち立てる。本書の最後で、この身振りの露出と展示がまさに政治と芸術であるとされていることの含意を、しっかりと汲み取っておきたい。

 ⑧の田中純(Jun Tanaka, 1960- )の『政治の美学』は、戦争やテロルが美化され、陶酔を呼び覚まし、官能的な情感さえ湛えるという事態について、その根底にあるファンタスムを剔抉する一書だ。政治も芸術と同じく「人間精神の幻想的な修辞学」(橋川文三)であるからには、政治権力の美的表象はけっしてときの政権の大衆宣伝に尽きるものではない。そうして本書は、主権の根底に死者たちの領域があることを見定める。イタリア・ファシズム古代ローマの再来を演出し、ドイツ・ナチズムが第三帝国を名乗り、日本帝国主義天皇制の伝統を拠り所にしたように、主権の確立は、過去の死者たちを我が物とすることによって、それを美的に表象することによってなされる。けれども死者たちとの関係は、生者が恣意的に操作できるものであるどころか、生者に取り憑いて幻想へと感染させる危険きわまりないものでもある。権力のプロパガンダを批判的に考察した研究は数多くあるなか、主権の根底にある死者との情動的紐帯を剔抉する本書は、その怜悧で鬼気迫る考察において傑出している。

 

三 言葉、イメージ――普遍性の構成

 

⑨ カルロ・セヴェーリ『キマイラの原理』(水野千依訳、白水社、二〇一七年〔原著二〇〇四年〕)

⑩ 平倉圭ゴダール的方法』(インスクリプト、二〇一〇年)

 

 「イメージ論」と便宜的に呼び慣わされている近年の諸研究では、言葉によって明晰判明に定義される概念とは異なる思考のありようがイメージに探られていて、まさに美学の本流を更新する知見が蓄積されてきている。イメージ論に参入している学者の出自は多様だが(それゆえ概念的な混乱もままあるが)、さしあたり解釈学的美学の観点から著されたゴットフリート・ベーム『図像の哲学』(塩川千夏、村井則夫訳、法政大学出版局、二〇一七年〔原著二〇〇七年〕)が問題の広がりを知るのに好適だろう。イメージの意味内容よりもその行為遂行性に着目する点が、まずは近年のイメージ論の重要な傾向だ。とはいえ、文化相対主義を潜り抜けた上で、文化的差異を排除せずにそれを包括するような普遍性を理論化しようとしている点も見逃せない。人類にとって言葉よりもイメージのほうが古く、しかもイメージは言葉よりも容易に時代や民族や文化を超えて伝播する――必ずしも意味や効力の同一性を保ちはしないにしても。さらに人類は、他の生物種とも外観の表出というイメージを介してやりとりできる。こうしたイメージの遍在性には、言葉による思考とは別の、イメージによる思考ならではの普遍性の可能性があるかもしれない。

 文化的差異を捨象した一般概念の普遍性ではなく、文化の多様性を包摂して構成されていくイメージの普遍性――それについては、まずは⑨のカルロ・セヴェーリ(Carlo Severi, 1952- )による『キマイラの原理』を読むべきだろう。文化人類学における口承伝統と文字伝統という区別(そして歴史学・考古学における先史時代/有史時代の区別)を、イメージの存在を看過したものであるがゆえに疑問に附しながら、セヴェーリはイメージのはたらきを社会的記憶の観点から探る。ヴァールブルク(Aby Warburg, 1866-1929)の美術史学の洞察を敷衍し、キマイラのごとく混淆し分極化し強化されるイメージの生成変化をあとづけるとき、敵対しあう文化さえもが融合するというイメージの奇妙で強靱な力が明らかになる。セヴェーリは、イメージ論を記憶の構造から思考の形式へとさらに拡張した『人格としての対象』(二〇一七年、未邦訳)をちょうど上梓したところでもある。

 イメージによる思考のありようを剔抉したものとしては、ゴダールJean-Luc Godard, 1930- )の映画作品に関するモノグラフながら、⑩の平倉圭(Kei Hirakura, 1977- )の『ゴダール的方法』も必読の書物である。すでに言葉としてある思想を表明したのではなく、映像と音声そのものによって思考しているというゴダールの映画を把握するために、本書は作品自体から分析方法を引き出す。すなわち、ゴダールの編集操作の手つきを分析方法として作品に再帰的に適用する。それにより、明晰判明な言語使用においては論理矛盾として否定されてしまうだろうイメージの「類似」の論理を、徹底的にあとづけることに成功している。ゴダールの映画はしばしば観者が映画を見ることのアレゴリーになるが、それはゴダールの編集操作の根幹たる「類似」が、映画内の映像で完結することなく、観者の想像力も、身体さえをも、巻き込むからだろう。ヴァールブルクの言う情念定型のごとく、光と音を受苦する身体がそれを与える映像と音声に似たものになってしまう。ゴダールがイメージに写し取られた過去の「復活」を語るゆえんだ。だが類似は可逆的であって、現在と過去、復活と死とは、イメージのなかでかぎりなく識別不能になる。本書はそのあるかなきかの生と死の境界を、観者の生きた身体に求める。多様なものを包摂していくイメージの類似性が、しかし平板な「どれもすべて同じこと」になってしまわないとすれば、その要には身体がある。この本書の洞察は、身体的な認知限界から生じる微細な差異にもとづく「失認的非理論」という、きわめて示唆に富む方法論に結実しているが、そうした認知限界は自然的身体のみならず政治的身体のものでもあり、歴史的身体のものでもあるだろう。ここから感性の非理論のさらなる展開が期待される。*1

*1:岡本源太「美学の今世紀」、『現代思想』第46巻第6号、2018年4月、134—140頁