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岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『アトラス、あるいは不安な悦ばしき知』

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『アトラス、あるいは不安な悦ばしき知』伊藤博明訳、ありな書房、2015年(原著2011年)

アルベルティの物語からグリーンバーグの平面まで、部分を全体に統合していく美学的=認識論的モデルに対して、ディディ=ユベルマンはヴァールブルクのアトラスとベンヤミン弁証法的イメージをもとに、部分と部分をたえまなく結合分離するモンタージュの美学的=認識論的モデルを提起する。

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卜占は盤のうえで印を操作し読解するが、それは記憶と欲望の介入なしには、その意味で過去と未来、時間、の侵入なしには、ありえない。バビロニアからローマまで卜占にもちいられた肝臓を、プラトンが欲望の器官としたのも、そのためだったのか。ブルトンの語る欲望の文字で書かれたスクリーンも、レオナルド・ダ・ヴィンチからさらに遡って、卜占の伝統に通じている。もちろんそれは世俗的啓示に変形されているにしても。

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ボルヘスでも、またゴヤでも、概念の変形とカテゴリーの解体は不安な笑いとしてあらわれる。過去の放棄でも受容でもない変形こそが、思考を解放し自由にするのだとして、このとき経験的なものが超越論的なものを変形することによって、なぜ笑いにいたるのか。ここから情念論を捉えなおして、その形而上学的な次元を回復することはできるだろうか。

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ディディ=ユベルマンゴヤの《理性の眠りは怪物を生む》を、アトラスの形象に重ね合わせて、想念を背負う近代人の寓意として読み解く。それはカントが「曖昧な表象」と——ライプニッツ主義の用語で——呼んだものを背負う理性の姿であるとすれば、その知はまさに美学そのものだろう。また同時にそれが市民社会についての哲学的批判でもあることに注意せねばならない。

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知は苦しみから生まれるとともに、知が苦しみをもたらすこともある。それでも人間は知を求め、知を欲望せずにはいられない。その苦しみを悦びに変換し逆転することを、ヴァールブルクはニーチェを引き継いで目指していたのか。

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知は苦しみから生まれ、苦しみをもたらすものとして背負われる——ディディ=ユベルマンの示唆を敷衍すれば、古代人にとってそれは運命、つまり神々のごとき自然の力をまえにした人間の無力であり、近代人にとっては想念、つまり社会を形成する人間の苦闘であり、現代人にとっては過去、すなわち進歩によって無用にされてしまった襤褸と屑だと、言えるだろうか。

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戦争こそが技術を急速に進歩させるが、その新規さが呼び寄せるのはかえって亡霊のごとき迷信、伝説、神話だ。新しさこそが残存を引き起こす。過去がモデルとして、パラダイムとして、新しさのショック作用を中和すべく呼び出される。そこにしばしば未来の姿さえ暗示されるのは、残存こそが人々の思考と行動を左右して未来を形成してしまうからか。ただ誤謬として切り捨てただけでは、それは力を失いはしない。それどころかいっそう暴走するだろう。

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ウィトゲンシュタインは、ダーウィンフロイトを、隠された本質や真理の発見者としてよりも、事物とイメージの新しい配列法の考案者として評価したという。そこからディディ=ユベルマンは、ウィトゲンシュタインをヴァールブルクに近づける。このとき看過すべきでないのは、言語ゲームであれ社会的記憶であれ、二人とも共同性をこそ問題にしていたことだろう。人々が共同できるのは、事物の配列と記述を通してであって、本質の説明や意図の伝達によってではない。