歴史の言説を「物語り」概念によって分析したアーサー・ダントー(1924- )の最初の著作(1965年)。
ダントーがこの本で試みているのは、「歴史の仕事は過去をありのままに追体験すること」という歴史主義への徹底した反駁と言えるが、それを歴史言説の論理構造のレヴェル(ヘイドン・ホワイトのようなレトリックのレヴェルではなく)を分析することでおこなったところに、ダントーの卓抜さがあるだろう。歴史の言説は事後性にもとづいて出来事を組織化する「物語り文」によって成り立っており、仮に出来事をあるがままに記述することができたとしても、その記述は決して歴史にはなりえない(そしてそもそも人間の言語ではそのような記述は不可能である)ことを、この上なく説得的なかたちで提起しているように思う(それだけに、ダントーがその後の美学についての諸々の著作において、作者中心主義と結びついた歴史主義に陥ってしまっているのが残念でならない)。
この歴史の「事後性」(ダントー自身はこの語を使っていないが)は、ひじょうに重要な視点だろう。歴史はその当事者や目撃者が知りえないことをことを語るのであり、そしてそのことは歴史の真理性を少しも妨げない。むしろ、当事者や目撃者の内面性に歴史の真理性を根拠づけようとすると、逆に歴史の真理性は解体してしまう。それはたとえば、当事者や目撃者の内面に歴史の真理を根拠づけるのが否定論者の常套句だということを考えてみればすぐにわかる(もちろん、たんに証拠が不十分だからという素朴な観点から否定しようとする否定論者も多いのだが)。
時代が異なるからといって、歴史的理解が困難になることはない。時代が同じだからといって、歴史的理解が容易になることもない。私たちはいま自分が何をしているのかを、それが終わってから、つまり過去のものとなってから初めて知る。つまり、自己理解もまた他者理解となんら変わるところはない。