The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

中井正一『日本の美』

中井正一『日本の美』、中公文庫、2019年(初版1952年)[併録の『近代美の研究』の初版は1947年]

 

「思想的危機における芸術ならびにその動向」(1932)では、文化の機械化と大衆化が思想の危機をもたらしたという通説が、近代における学問の専門化と職業化――「精神的機械化」――からの帰結として読み替えられる。真理は宗教から抽象されて、それ自体で自律した絶対的かつ純粋なものになったが、それとともに全体性を失って、専門分化してしまった。「科」学の成立だ。芸術もそれと連動して、普遍的な真理を模倣するものから多様な個性を創造するものになり、その形成基盤も技術から天才に移る。学問と芸術におけるこの全体性から多様性への変化を、中井は危機ではなくむしろ協働の新たな可能性の基盤と見なす。
  テオドール・リップスの感情移入説で完成された個人主義的な美学の教説を、中井は「組織感」「事実感」「速度感」の三つの新しい集団的な美感によって解体し、再編する。個人の身心の調和による快感は、集団の構成の調和による組織感になる。個人の記憶による事実の把握は、記録装置によって、集団で共有可能になるばかりか、歴史のあらゆる細部にまで拡張される。個人の構想による未来の展望と冒険は、たんなるスリルであることを超えて、集団による企画という厳密さと明晰さをもって、過去の重圧を速度に変えて現実を乗り越えていく。利潤からなる集団が利潤追求を克服する道を、中井はここに見ているのか。

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「現代における美の諸性格」(1934)によると、いわゆるコペルニクス的転回によって成立した近代的主体は、その心理主義的解釈がしだいに克服されていくにつれて、個人主義的主観性から集団主義的主体性へと転換していく。この主体性の感性的基盤となる存在感が自然概念としてあらわれると、中井は見なしつつ、ジョルダーノ・ブルーノの生産と発展を示す自然概念に触れる。ブルーノ自身は「能産的自然/所産的自然」という対概念をはっきりともちいているわけではないにせよ、天動説から地動説への転換が宇宙論と認識論にまたがるものであるように、自然概念の変化も存在への感受性としての世界像と人間像にまたがる。
 現代文明の根底にある存在(実存)と世界への感受性を、中井は表現主義、新心理主義、未来主義、構成主義、大衆文化のうちに次々と探っていく。個別の実存と全体の秩序との節合が問題なのだが、前衛芸術と並んで大衆文化にもその抑圧された願望と秘められた可能性を見ている。とはいえ、大衆文化もそのままでは利潤追求にとらわれている。個別と全体の節合が、数学的な反映論にとどまらずに、生産と事実の水準で打ち立てられるとすれば、当然のこと歴史性が要になる。

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「近代美と世界観」(1947)によれば、ギリシアの運命悲劇やルネサンスの性格悲劇といったそのときどきの美の登場の根底に、時代の転換、文化の裂け目があるという。日本でも「さやけさ」「さび」「すき」「いき」へとしだいに美が移っていったごとく、文化の裂け目で古いものを脱け出ていく「脱落」の動きこそが美を生む。この中井の歴史観は、さらに古典主義・自然主義・現実主義から次々に脱け出ようとあがいたロマン主義の描写にはっきりとあらわれているように、きわめて弁証法的だ。文化の裂け目で危機の瞬間に閃く美は、まさに歴史経験でもある。
 映画のもたらした新しい美感は、中井によれば、「現実がもっとも神秘的なものであるという感覚」だという。技術の発達にもとづく「事実感」「組織感」「歴史感」「生産感」を集約したこの感覚、この新しい美が、個人主義から集団主義への転換期にある文化の裂け目、現実世界の歪みを認識させる。このとき転換しつつある世界観は、subjectumを「基体」とした古代の世界観から「主観」とした近代の世界観への転換のさらにその先にあって、まさにsub-jectumたる根底に横たわるアトラス的主体をその土台とする。