The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ユベール・ダミッシュ『カドミウム・イエローの窓』

Hubert Damisch, Fenêtre jaune cadmium, Paris : Le Seuil, 1984

 

ダミッシュの哲学的な核心は、理論と歴史を駆動するアンフォルムとアナクロニズムへの洞察にあるように思うが、彼の仕事を美学美術史の伝統的な主題のなかに位置づけるなら、線と色、および図と地の理論/歴史についての研究としてまとめられるかもしれない。『カドミウム・イエローの窓』でも、これらの主題を繰り返し喚起しながら、モンドリアンとクレーから、ポロックやデュビュッフェ、アダミにルーアンまで、近代美術における「抽象」の問題、とりわけ抽象と主題=主体との結びつきという問題を考察し、そして芸術の終焉論への批判的示唆を展開している。

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バルザック『知られざる傑作』を、ダミッシュは交換と発見=発明の神話的物語だとしつつ、自然と絵画、現実と虚構(「真実」)、人生(恋愛)と芸術が、あたかも線と色のごとく理論的に対立しながら交錯するさまをたどる。いわば線描派のポルビュスと色彩派のフレンホーフェルの対立へと単純に図式化できそうでいて、その実、フレンホーフェルは幻想文学と同様に定義しえないままにとどまる。この定義しえなさは、未完成の美学におさまるものではなく、むしろ歴史上のプッサンが語った「絵画の思考」、つまり主題と描写のあいだを媒介するたえざる変奏に通じている。

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クロード・ジョルジュの絵画をめぐって、ダミッシュは絵画と数学を近づけ、それらを言語と対置する。絵画も数学もその思考においてはイメージをこととしており、しかしそれらを言語は無言のものと見なす。いずれも、ある図を、形象を、地に配置して分節化することに対して意識的な作業であるにもかかわらずだ。この対立は、ダミッシュが情報理論をこのとき参照していることもあってか、ミシェル・セールによるアルゴリズムの思考と概念の思考との対置を思い起こさせる。

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抽象は実のところ操作であるがゆえに意味作用も現実世界とのつながりも排除せず、モンドリアンやクレーに明らかなように、建築、都市、数学、音楽などを次々と模倣しうる。その抽象が主題=主体の問題をこそ強く打ち出すのは、ポロックが示しているごとく、これもまた操作であるがゆえにだろう。モンドリアンの《コンポジション》が、建築と絵画の一致する造形という次元でこそはたらくがゆえに、ルネサンスの理想都市のイメージ、ユートピアのイメージと同様のものでありうるとすれば、ユートピアも二重否定という操作によって構成されるからか。このとき絵画はもはやイリュージョンではない。

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ダミッシュはポロックを、類比(デュビュッフェ)や対比(ニューマン)ではなく、変換としてマティスと並置する。歴史は継起でも影響でも止揚でもなく、線でも網でもない。比較、類比や対比では捉えられない。歴史を、ある構造、ある問題機制において並置される変換群と見なすことは、歴史の否定であるどころか、線や網へと単純化されがちな時間に、展開の動力を返すことだ。このような歴史は、線でないのなら色だろうか。

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歴史の概念を「概念」として成立させるとは、その「操作性」を十全に展開することなのだろう。線や網といった形象に歴史を還元するのではなく、変化や動向を生じさせる構造を、規則を、把握することだ。「戦略、1950〜1960年」の章でダミッシュは、まず現象を記述し(出来事)、ついで位置を分析し(構造)、さらに個々のプレーを産出するゲームを成立させるとともに解体しもするアンフォルムを把握する(構造の構造)。ウィニコットを介して構造変換の場として理解されたアンフォルムは、ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラの神やジョルダーノ・ブルーノの宇宙にも似る。

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構造主義における構造とは変形の規則なのだから、構造の構造にほかならないとして、その変形の場がウィニコット的な意味でのアンフォルムであるとは、いかなることか。たんなるフォルムとの対立ではなく、フォルムの侵犯でもなく、フォルムの起源とも言えない。両極性にもとづくゲームを成立させ解体しもするアンフォルムは、戦後の芸術動向においては抽象、マチエール、エクリチュールなどの形姿を取った。これはむしろ概念ではないか。相反するような形象と比喩の広がりを、概念は取り集めて、アンフォルムとなる。

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歴史の終焉論も芸術の終焉論も、プレーとゲームとを混同した議論なのだとして、では発展と止揚でも、その逆行の衰退と影響でも、その反転の終焉と多様でもないような歴史の概念は、そうした逆行や反転の変形の規則、構造、として、実際の作品において展開するだろう。だからこそアド・ラインハートは黒い絵画を描いたし、描きえたのだ。

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アルベルティが『絵画論』で、「画家として語る」のだと述べて、点に広がりを認めたことに、ダミッシュは原子論との通底を指摘する。それゆえアルベルティの遠近法は、原子論の基本要素が原子と空虚であるのに似て、形象と空間という二つのものを別個の原理で扱うことになったのだという。

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ヴァレリオ・アダミにとって、絵画制作にあたって写真資料を参照するのは、画家が絵画モデルを、学者が引用文献を確認するようなものだという。イメージを言葉の挿絵と見なす、そして絵画を典拠の図解と捉える発想を、ダミッシュはアダミとともに逆転する。ドガヴァレリーの関係のそれのごときこの逆転こそが、言葉ではないイメージの思考を問いうるものにする。また、美術史におけるアナクロニズムを問いうるものにする。さらには、絵画の「主題」をむしろ「主体」として問いうるものにするだろう。

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人間が考えるというよりも事物そのものが考えていると言えるほど、事物が人間をして思考させる。芸術が思考のモデルになる。「理論的対象」はその謂いだ。このとき、事物が単一であっても思考は複数の観点を示し、諸々の解釈は構造変換において相補い、補完しあう。「世界の複数性」をその謂いとして理解できるか。

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絵画を、現実に対する錯覚と見なすのではなく、現実のなかで作動するタブローとして理解するとき、具象か抽象かという論争は乗り越えられ、形象こそが問題になる。しかし形象=図を地から浮かび上がるものとしてしまうと、絵画はまたも非現実的な錯覚だと見なされてしまう。この図と地の関係を、構成主義アンフォルメルも問いに付したのだ。ダミッシュはやがて図と地の関係を構造変換(レヴィ=ストロース)にしてアスペクト転換(ウィトゲンシュタイン)として理論化していくが、そこにはポントルモの洞察がたえずありつづけている。