The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 エルンスト・カッシーラー『人間 (岩波文庫)』(宮城音弥訳、岩波文庫、1997年)

人間 (岩波文庫)


エルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer, 1874-1945)が、「象徴」という観点から、人間の特異性を考察し、神話と宗教、言語、芸術、歴史、科学の諸領域を論じた書物。

実体としてではなく関数=機能として、静的なものではなく動的なものとして、人間の本性とその文化の諸局面を捉えようとするカッシーラーは、実在とは切り離された思考を可能にする「象徴」に、その要を見いだしている。この「象徴」についてのカッシーラーの議論は、構造主義の議論などを念頭におけば(カッシーラー以後のものたる構造主義を引き合いにだすのはアナクロニックなことだが)、今日ではいくぶんおなじみのものにも思えるし、むしろその先駆性に目を瞠ることとなるかもしれない。とはいえ、動的なものを実在からの離脱として論じるということは、実在のうちに動的なものはないという発想に通じているのではないだろうか。

カッシーラーは、象徴がいかに人間に固有のものであるかを語り、それがいかに実在から解き放たれて自由をもたらすかを語る。カッシーラーは、有機体と環境との相互循環のレヴェルだけで考えることの不十分さを指摘し(このレヴェルでは人間を動物から区別できないとカッシーラーは言う)、実在から切り離された象徴系を導入して、これを人間の人間性ととらえる。認知科学人工知能研究が有機体と環境との相互循環という観点への回帰を方々で見せている現在からすると、このカッシーラーの指摘はいかなる意味をもつだろうか。たしかに、象徴が可変的で可動的なものであり、生成変化しゆくものであるとはいいうるだろう。けれども、それは実在から切り離されていること(ソシュール的な「恣意性」、エーコ的な「嘘」)からの帰結なのだろうか。カッシーラーは、象徴の固有性を論じようとするあまり、象徴以外のものを不当に狭めてしまってはいないだろうか。

カッシーラーへの違和感。それは、ひとつには執拗に人間を動物から切り離そうとすることにあるだろうが、おそらくはそれ以上に、象徴を実在から、可能を現実から分離し、峻別し、区別するだけで終わってしまうところにあるように思う。象徴は実在から切り離されているがゆえに自由なのだと、可能は現実から切り離されているがゆえにこそ自由なのだと、語ることは、おそらく問題を見誤っている。問題なのは、象徴は実在と結びついているからこそ自由なのだと、可能は現実と結びついているからこそ自由なのだと、論じることであり、その内実を理論化していくことであるように思う。