The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

大学ではじめて美学に触れるひとへ

 

美学について

 「美学」という学問を知ったのは、大学の1年次生だったときのこと。先史の装飾から現代の映像まで、絵画に音楽に文学に建築に、さらには人間社会も生物行動も自然景観も、「感性」を切り口に横断的に考察していく美学は、世界の姿をまるごと眼前に示してくれるように感じられました。美しいものに出会うと、僕らは訳も分からず言葉を失って、代わりに今まで眠っていた全感覚が活発に鋭敏になります。そうして、知らなかった世界を認識し、新しい思考や行動を獲得します。ひょっとしたらこれは人間の生存本能なのかもしれません。美学は、こうした言葉になるまえの感性にもとづく思考と行動を、哲学にも共通する概念分析(「理論」)と、美術史にも比肩する事例分析(「歴史」)とを駆使して把握します。

 たとえば、ルネサンスのヨーロッパ。イタリアを中心に、数々の文学と芸術が花開いたこの近代文明の揺籃期は、明日をも知れぬ動乱期でもありました。ギリシア・ローマからペルシア・エジプトにまで遡る古代文明の再発見、自然学の発展による数々の新発見、アメリカや中国など異文明との接触、国際語であったラテン語の失墜と各国語の興隆、宗教戦争ゆえの社会の分裂――このとき世界はもはや既存の言葉と概念では説明できなくなりました。だからこそルネサンスの人々は、多彩な比喩を繰り出す文学と多様な形象を生み出す芸術でもって、人間と世界、言葉と科学、社会と歴史、政治と文化についての新たな洞察を獲得したようにも思えます。

 僕は今現在、この「人文主義ヒューマニズム)」と呼ばれる動向がもたらしたものを、「世界の複数性」という切り口で、ルネサンス以来のヨーロッパの哲学と芸術に遡って考察しながら、その今日的な展開を現代思想や現代芸術を手がかりに研究しています。

 

大学について

 僕自身がいちばん記憶に残っている大学の授業は、1年次の4月最初、川を雛壇がまるごと流れてくる奇妙な映像を見せられ(実は寺山修司の有名な映画だったのですが)、何やら分からない講義を延々と聞かされたことでしょうか。必死でノートを取ったものの、断片的な単語の羅列にしかならず、途方に暮れました。ところが、卒業も近くなってふとその授業ノートを見直したら、書き連ねられているのはあれもこれも重要なキーワードばかり。なぜこんなに面白い話を、あのときは意味不明としか思えなかったのか――。

 大学の授業とはそんなものらしく、師友に思い出の授業を尋ねても、おおむね難解な授業に溜息をついた話が挙がります。逆に、手に取るように分かった授業は、満足感だけがあって、実際の内容は往々にして忘れています。不思議にも、容易さは忘却に、難解さは記憶に通じているようです。少なくとも、僕のなかにけっして消え去らない何かを刻み込んだのはいつでも、難解なもの、理解しがたいもの、謎めいたものでした。

 大学とは、いまだ解決できていない問題に取り組む専門的な研究機関です。だからどの授業も、ただ解答を憶えさせるためのものではありません。むしろ解決されざる問題を提示し、謎をかけるのです。なかでも僕の担当する美学の講義・演習では、おもにルネサンスから現代にかけての芸術/思想を主題にします。ルネサンスのヨーロッパ人たちは美の本質を「nescio quid」「non so che」「je ne sais quoi」などと呼び、それが現代にも継承されました。「わたしには分からない何か」ということです。言葉で説明できない美の謎から、研ぎ澄ました感覚でもって何を獲得できるか、それは皆さん次第。始めるのに必要なのは、好奇心、注意深さ、寛容さ、だけ。

 

論文について

 論文を書くとは、かつてない新しい知識をつくりだす営為にほかなりません。卒業論文も論文の一つである以上、それは教員も知らない知見をもたらす、印象深いものになります。言ってみれば、卒業論文のテーマは、かならずしも教員の専門そのままではない、皆さん自身の関心によるものだということです。

 美学の卒業論文では、多くの場合、一つの作品や事例、一人の芸術家や思想家に焦点を当てます。現在進行中の卒業論文研究では、ベルクソンドゥルーズといった哲学者、ロスコやダリをはじめとした芸術家、ダダやシュルレアリスムなどの芸術運動が取り上げられています。もちろん美学には、芸術以外にも、認知科学や生物学と結びついた神経美学、政治社会問題を論じる政治美学/社会美学、自然環境を考察する自然美学など、幅広い研究テーマがあります。

 

研究について

 主著となると、『ジョルダーノ・ブルーノの哲学――生の多様性へ』(月曜社、2012年、新プラトン主義協会賞受賞)でしょうか。16世紀に大胆にも新しい人間像と宇宙像を提起して火炙りにされたイタリアの哲学者ブルーノを導きに、近代文明の思想的な始まりを探し求めてルネサンスに遡った研究です。翻って、そのルネサンスから流れ出た現代の想像力や感受性に関する研究としては、『『明るい部屋』の秘密――ロラン・バルトと写真の彼方へ』(共著、青弓社、2008年)、「囚われの身の想像力と解放されたアナクロニズム――イメージ論の問題圏」(『現代思想』第41巻第1号、2013年)、「眼差しなき自然の美学に向けて――イメージ論の問題圏(二)」(『現代思想』第43巻第1号、2015年)などがあります。

 ほかに、これから書くつもりの研究論文の構想を一覧にしてみたら、現時点で数十本、書物5冊ほどの分量になりました。ふと、ミルチャ・エリアーデの日記で読んだパーシー・ラボックの言葉が思い起されます。曰く、「まだ実際には書いていない、これから書きたいと計画している書物や論文は、精神という果樹園のなかで花咲いている唯一の樹だ」。

 

書物について

 座右の書と訊かれたら、17歳の頃から十数年このかたマルクス・アウレーリウス『自省録』(岩波文庫、1956年)ですが、それとは別に、大学生のときの思い出の本があります。レヴィ=ストロース『野生の思考』(みすず書房、1976年)とダミッシュ『パリスの審判』(ありな書房、1998年)です。当時は何度読んでも歯が立ちませんでしたが、それでも挑戦する価値がありました。彼らは僕に謎をかけたのです――言葉や概念になる以前の、感覚や形象や比喩にもとづく神話的思考こそが、芸術の起源にして文明の根源ではないのか、と。

 皆さんも、分かりやすくても詰まらない入門書など捨ておいて、まっすぐ美学の諸問題に踏み込んでください。たとえば淺沼圭司、尼ヶ崎彬、小田部胤久、佐々木健一、篠原資明、多木浩二、谷川渥、中井正一、西村清和、山崎正和ら、日本の美学者の著作から。夏目漱石吾輩は猫である』にも美学者・迷亭が登場するように、日本には海外に劣らぬ重厚な美学研究の蓄積があります。でも入門書も、とあれば、ウンベルト・エーコ『美の歴史』『醜の歴史』(東洋書林、2005年/2009年)を。西洋における美醜の理論/歴史を、豊富な古典引用と潤沢なカラー図版で綴った、ページをめくるだけで愉しい書物です。*1

*1:岡山大学文学部教員プロファイル』(2015年12月発行)掲載。

アーミテイジ

  • David Armitage, "What's the Big Idea? Intellectual History and the Longue Durée" (2012)

このところ思想史に「長期持続(Longue durée)」の視点が回帰してきているとして、イギリスの政治思想史家デイヴィッド・アーミテイジが、新たな「観念のなかの歴史(History in Ideas)」を提起したマニフェスト的な論考。ラヴジョイ的な通時態の観念史と、スキナー的な共時態の思想史と、その双方との方法論的差異を明確にしていく手際は鮮やかで、直線的な時系列を飛び越えて伝達され受容される政治的・倫理的・科学的観念――この論文では「civil war」が具体例として分析される――「のなかの」歴史を、「時間横断的な歴史(transtemporal history)」と「系列的な文脈主義(serial contextualism)」の方法論によって発掘していくべきという主張を、明快にまとめている。

観念の具体的な伝達・伝承・受容の物質的にして制度的な基盤を問うことで、かえって複数の時間を横断していく歴史を浮かび上がらせ(その意味で時間の横断は歴史を超えることではない)、そしてまた、その観念が実際に提起され発言された論争的な文脈・状況・戦略を再構築することで、かえってその同時代的文脈を超えて通底している過去(や現在や未来まで)を掘り起こす――このアーミテイジの方法論からは、もちろん、すぐさまフーコーからアガンベンにいたる「考古学」「系譜学」が連想されるところだけれど、でも同時に、この方法論を言説分析から事物や図像の分析へと拡張するなら、アビ・ヴァールブルクからユベール・ダミッシュにいたる美術史にもつながるように思う(アーミテイジ自身はニール・マクレガー『100のモノが語る世界の歴史』に言及している)。「観念」が非実体的にして問題提起的なものなのだとすれば、それはかならずしも「言語」と一対一対応するものではないだろう。ここに、「理論的対象」が思想史に(も)入り込んでくる余地がある。

アロア

  • Eammanuel Alloa, « Changer des sens. Quelques effets du “tournant iconique” » (2010)

イメージ論についての泰斗から新進の論客までを集めた論文集の編集を、このところ矢継ぎ早にいくつも手懸けているエマニュエル・アロア。その見通しの良さが、本人の論考にもよくあらわれている。が、裏を返せば、イメージ論の動向をそれなりに追いかけている人間にとっては、すべておなじみの見取図ということでもある。
ゴットフリート・ベームとW・J・T・ミッチェルによる「図像的転回〔iconic / pictorial turn〕」の提唱以降、イメージ学(Bildwissenschaften)やイメージ研究(image studies)の名のもとに、さまざまなイメージの地政学的・社会的・性差別的な意味や効力が分析されている。けれどもこのとき、イメージを言説制度や社会状況のたんなる「図解」に還元してしまうという、パノフスキー図像学のと似たようなアポリアが生じてもいる。それに対して、ジョージ・スタイナーやハンス=ウルリヒ・グンブレヒトのように、言葉に還元できない剥き出しの現前を主張する動きも出てきている。アロアは、このそれぞれを「アレゴリー」(別のものを語る)と「トートロジー」(同じことを語る)と特徴付けながら(そしてこの対立する二つをロラン・バルトのなかに集約的に見いだしながら)、そのいずれでもない第三のイメージの捉え方として、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンのような徴候的読解を位置づける。
わかりやすく見通しのよい図式だけれども、そのわかりやすさが逆に見落とさせてしまうイメージの一局面こそが、実は重要であるようにも思う。つまり、変換や翻訳の(「イコノクラッシュ」の?)問題。

セール

もはや何度目の再読だったか忘れてしまったものの、かなり久々にミシェル・セールとブルーノ・ラトゥールとの対談『解明』を手に取る。セール哲学への最良の手引きになっている書物だけれど(最後の客観的道徳としての普遍的な準客体の構成はまだこの時点では論じ切れていないきらいはあるが)、ちょうどラトゥールが『わたしたちはけっして近代的ではなかった』(邦題『虚構の「近代」』)を世に問うた頃の対談だけあって、重なる話題も多く、あわせて読むとラトゥールがどれほど忠実にセール哲学のプログラムを引き継ごうとしているのかがよく見える。

と同時に、再読してみるとセールとラトゥールの違いもあらためて感じられてくる。人文科学と自然科学――文化と自然――との分断を架橋していく際に、ラトゥールがどちらかといえば現代の政治的・制度的局面により介入していこうとしているのに対して、セールが引き受けようとしているのはむしろ「古典〔les humanités〕」であって、しかも人類の受苦の記憶としての古典である。人類史にパラジットのごとく遍在する暴力を抑えるために、逆に受苦の記憶としての古典の「ルネサンス」に向き合う、古典主義者にして人文主義者セール。そのアナクロニックな時間モデルも含めて、意外にもセールの哲学が――ベンヤミンフロイトなどよりもよほど――アビ・ヴァールブルクの美術史と重なって見えてくる。

もちろん、セールが積極的にマルセル・モースやジョルジュ・デュメジルやルネ・ジラールやフィリップ・デスコラらに応答していることに鑑みれば、こうした人類史的な展望での一致はさほど驚くべきことでもないのかもしれない。ブルーメンベルクやアドルノなども含めて、いちど本腰を入れて考えてみるべき問題のようにも思える。

カントーロヴィチ(ブーロー)

先頃『皇帝フリードリヒ二世』も翻訳されたエルンスト・カントーロヴィチの伝記を、アラン・ブーローが著したもの。当時の小説の筋などとの類比も交えてカントーロヴィチの歩みを大胆に再構成しているけれど、なかでもとくに大胆で(理論的な関心からすれば)示唆的なのは、カントロヴィッチの語る「神学」(神話、虚構、テーマ)をミシェル・フーコーの「言表」に近づけるところだろうか。神学の言葉が、現実のかたわらでもうひとつ別の現実を構成し、人々の思考と行動を導き、そうして現実それ自体を変形してしまう。
これをカントーロヴィチは「政治神学」と呼んでいるが、ブーローによれば、カール・シュミットら世俗化論者の言う「政治神学」とは話が逆になっているという。つまり、世俗化論では、西洋中世のキリスト教神学の諸概念が近代の政治の原型を与えた(虚構が現実に権力を与えた)という話になるものの、対するカントーロヴィチでは、政治が神学にしたがわざるをえなかった(現実の権力を虚構が奪った)という話になる。であれば、ここでカントーロヴィチをフーコーに加えてハンス・ブルーメンベルクにも近づけたくなるが、ともあれ、このところジョルジョ・アガンベンがおしすすめている政治神学の系譜学の射程も、こうした政治神学のヴァリエーションに注意して見定めなければならないように思う。

プレヴォー

  • Bertrand Prévost, « Direction-dimention » (2013)
  • Id., « Des putti et de leurs guirlandes » (à paraître)
  • Id., « Cosmique cosmétique » (2012)
  • Id., « L’ars plumaria en Amazonie » (2011)

 ひきつづいてベルトラン・プレヴォーの「イメージ人類学」的な装飾論。西洋美術でやたらと装飾的に描き込まれるプットーの形象を、実際に装飾として考えて、そこからゴンブリッチ幾何学的秩序に還元してしまった装飾論を刷新していく手際は鮮やか。さらに装身具、テキスタイル、入れ墨、はては人間を越えて動物の毛皮の文様まで、考察を広げていく。
 ゴットフリート・ゼンパーの再評価も面白いところだが、議論の要はここでもジル・ドゥルーズであり、そして装飾の「エレガンス」を「非人称化」に見たゲオルク・ジンメルである。世界の秩序とのアナロジーとしての装飾ではなく、自己の身体が投影された第二の身体としての装飾でもなく、身体の非人称化と超個体化によって「世界になること」としての装飾。「エレガンス」というカテゴリーの歴史性を問わないところはやや疑問が残るものの、なぜ装飾論が動物論につながるのかがよくわかる。

『現代の哲学的人間学』、ロータッカー

「哲学的人間学」(あるいは自然人類学や文化人類学と並べて「哲学人類学」と訳してもいいかもしれない)は、日本では1970年代あたりに一挙に翻訳されて研究書も書かれたものの、その後ほとんど途絶えてしまったように見える。記念碑的な『哲学の歴史』全12巻(中央公論新社)でも、まったく言及されていない。
とはいえ、このところ生態心理学のインパクトから「個体と環境の相互作用」や「人間と動物との境界」というユクスキュル的な主題が回帰してきているのを見るにつけ、ユクスキュルの発想を最大限に受け止めたヘルムート・プレスナーやアルノルト・ゲーレンらの哲学的人間学の成果は再吟味されてしかるべきようにも思う。マックス・シェーラーのように人間のみが「精神」に与るとするのでもなく、エルンスト・カッシーラーのように人間のみが「象徴」を有するとするのでもなしに、個体と環境の相互作用からいかに人間を理解できるだろうか。
おそらくは、このとき「イメージ」が問題になるからこそ、ベルトラン・プレヴォーやエマヌエーレ・コッチャが美学的観点からアドルフ・ポルトマン――哲学的人間学のもっとも近くにいた動物学者――の読み直しに着手しているのだろう。

プレヴォー

  • Bertrand Prévost, « Pouvoir ou efficacité symbolique des image » (2003)
  • Id., « Figure, figura, figurabilité » (à paraître)
  • Id., « Transporter-transformer » (à paraître)
  • Id., « Inverser-traverser » (à paraître)

ベルトラン・プレヴォーは、いよいよ「ジョルジュ・ディディ=ユベルマン以後」に打って出ようとしているのか、このところ精力的に研究を広げてきているよう。プレヴォーの出発点自体は、アビ・ヴァールブルクの衣鉢を継ぐかのごときイタリア・ルネサンス美術における身振りの問題だったものの(以前聴講した講義もその内容だった)、そこからネイティヴ・アメリカンの羽根飾りという、まさにイメージ「人類学」の研究にも手を広げたかと思えば、アドルフ・ポルトマンとレイモン・リュイエを軸にした「動物の美学」の問題にまで取り組んでいる。
レヴォーの理論的な立場を把握しようとすると、まずはこのあたりの論文ということになるのだろうけれど、なによりもジル・ドゥルーズへのはっきりとした依拠が特徴であるように見える。レオン・バッティスタ・アルベルティからクレメント・グリーンバーグにいたるまでの「面」の美学(「外延」の美学)に対して「強度(内包)」の美学を掘り起こそうというわけだが、ちょうどディディ=ユベルマンが「徴候」と「弁証法的イメージ」をキーワード(呪文)にしていたように、プレヴォーは「特異性」と「強度」を呪文にしていると言えるだろうか。
とはいえ、この特異性と強度への着眼は、デイヴィッド・フリードバーグ『イメージの力』への書評(2003年)で鋭く批判したイメージ人類学の素朴な心理主義的前提に対する、プレヴォー自身の回答でもあるように思う。この書評の段階ではまだ現象学と人類学のいっそうの取り込みに期待をかけるという、ディディ=ユベルマンやハンス・ベルティングらとさほど変わらない見解だったが、しかし早くも「機能主義」的な視点(イメージの機能や効力を問う研究姿勢)の限界を見定めていたことに注意したい。「パフォーマティヴ」のレヴェルからこぼれおちるものこそ、「強度」であり、「特異性」であり、もっと言えば「美学」ということになる。

ファルギエール

  • Particia Falguières, "The theatrum mundi in the Sixteenth century" (2005)

パトリシア・ファルギエールはルネサンス哲学と現代美術の二つを軸に据えた研究をしているので、個人的になんとなく親近感を覚えるが(時間割の都合で授業を取れなかったのがいまでも悔やまれる)、このインタビューでは、ルネサンスにおける「世界劇場〔theatrum mundi〕」の比喩を、プラトン『法律』にさかのぼる系譜ではなく、むしろ意外にも当時のアリストテレス主義との関連から、「機械の劇場」「トポスの論理と技術」として明快に解説している。
それによると、永遠不変の天上界と生成変化する月下界とを峻別するアリストテレス主義的な世界観を背景に、不可知だが表象可能な天上界に対して、可知的だが表象できない月下界をそれでも把握する普遍的道具として、ルネサンス的な「トポス」の技術が生み出されたという。いわばある種の分類のテクニックだが、中世のとは異なって、分類法(容れ物)と分類される事象(中味)とが無関係(そうでないと普遍的な応用性をもてない)なのが、特異な点であるとのこと。とすれば、一見すると網羅的で百科全書主義的たらんとしているかのようなルネサンスの分類法や論理学や記憶術……は、実は、全世界を包括的にあらわした表象ではないことになる(たとえイメージに満ちあふれていたとしても)。そうではなく、どんな偶然的なものでも秩序づけて構成しうるという意味で「普遍的」な、一つの道具にすぎない(別の仕方をとれば別の秩序へと構成しうるのであって、唯一絶対の完全な表象をつくりだすわけではない)。
天上界と月下界の区別を破棄するジョルダーノ・ブルーノは、この「道具」を全宇宙に適用してしまったようにも見えてくる。そうであるなら、ガリレイはまさにその反対のことをおこなって、数学という天上界の原理を月下界に適用し、この普遍的道具を解体したようにも思える。

マニグリエ

  • Patrice Maniglier, « Dessine-moi un éléphant ». (2010)

このところエリー・デューリングと並んで、現代思想と現代美術の双方にまたがる考察を精力的に展開しているパトリス・マニグリエ。芸術論『悪魔の遠近法』(2010)と映画論『フーコー、映画に行く』(2011)のあいだに発表されたこの小論を繙いてみると、問題意識もアプローチの仕方もデューリングによく似ている印象。さすが『マトリクス』について共著論文を書き、別々の論文でもしばしばたがいに参照しあっているだけのことはある、と言うべきか。
とはいえ、ある状況のローカルな知覚とグローバルな把握とのつながりを、あらかじめグローバルな構造が与えられていると想定しないで捉えよう、という問題意識には大いに共感できるものの(まさに「世界の複数性」だ)、芸術を「実験」と捉えるアプローチの仕方については、率直に言ってそれほど新しいものと思えなかったりする。否定しようというわけではないが、マニグリエもデューリングも取り上げる作品の傾向がわりとはっきりしているので、知らず知らずのうちに「実験っぽい」作品のみを選んで考察の範囲を狭めてしまう危険性を感じなくもない。そのとき、ローカルとグローバルとの連絡は「反復されるものの核」でもなく「反復されないものの特異性」でもないような同一性の様態にかかっているというその指摘から、さらにどれほど先にまで進んで行けるだろうか。