- ミシェル・セール×ブルーノ・ラトゥール『解明』(原著1992)
もはや何度目の再読だったか忘れてしまったものの、かなり久々にミシェル・セールとブルーノ・ラトゥールとの対談『解明』を手に取る。セール哲学への最良の手引きになっている書物だけれど(最後の客観的道徳としての普遍的な準客体の構成はまだこの時点では論じ切れていないきらいはあるが)、ちょうどラトゥールが『わたしたちはけっして近代的ではなかった』(邦題『虚構の「近代」』)を世に問うた頃の対談だけあって、重なる話題も多く、あわせて読むとラトゥールがどれほど忠実にセール哲学のプログラムを引き継ごうとしているのかがよく見える。
と同時に、再読してみるとセールとラトゥールの違いもあらためて感じられてくる。人文科学と自然科学――文化と自然――との分断を架橋していく際に、ラトゥールがどちらかといえば現代の政治的・制度的局面により介入していこうとしているのに対して、セールが引き受けようとしているのはむしろ「古典〔les humanités〕」であって、しかも人類の受苦の記憶としての古典である。人類史にパラジットのごとく遍在する暴力を抑えるために、逆に受苦の記憶としての古典の「ルネサンス」に向き合う、古典主義者にして人文主義者セール。そのアナクロニックな時間モデルも含めて、意外にもセールの哲学が――ベンヤミンやフロイトなどよりもよほど――アビ・ヴァールブルクの美術史と重なって見えてくる。
もちろん、セールが積極的にマルセル・モースやジョルジュ・デュメジルやルネ・ジラールやフィリップ・デスコラらに応答していることに鑑みれば、こうした人類史的な展望での一致はさほど驚くべきことでもないのかもしれない。ブルーメンベルクやアドルノなども含めて、いちど本腰を入れて考えてみるべき問題のようにも思える。