The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ブリュノ・ラトゥール『科学論の実在』(川崎勝、平川秀幸訳、産業図書、2007年)

科学論の実在―パンドラの希望


ブリュノ・ラトゥール(Bruno Latour, 1947- )が、「主体−客体」の対を「複数の人間−複数の人間でないもの」の集合体へと置き換えながら、みずからの「実在論」哲学を展開した書物。

「絶対的な客観性」と「社会や権力による構築性」との闘争が実は一致して「大衆」を排除している、という分析(1章、7章、8章)、人間でないものも「行為者」(アクタント)のひとりと捉え、複数の行為者のあいだに不可逆的な対称性を見いだす視点(2章、4章、6章)、「批判」(イコノクラスム)に対する疑念(9章)などの示唆的な論点は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドからミシェル・セールへの系譜を継ぐラトゥールのまさに面目躍如といったところだろう。「いわば」「構築」されていればされているほど「実在」的である、という発想の転換を体系的に理論化しようとしており、ひじょうに面白く読む。

ラトゥールを「(社会)構築主義者」と捉えるのは、ウィリアム・ジェイムズを「観念論者」と捉えるのと同断の誤りのように思う。むしろ逆に、ラトゥールはあまりに実在論者すぎるきらいがある。示唆に満ちた書物ではあるのにいくぶん疑問が残るのは、ラトゥールがすべてのものを実在化してしまうあまりに、「虚構性をどのように位置づけるのか」「関与性の度合(実在性の度合?)については考慮しなくて良いのか」「同一であることをどう理論化するのか」などについていささか不十分にしか取り扱えていないからだろう。とくに「歴史」と「実体」の扱い(5章)に、それはあらわれているように思う。「歴史」は、ラトゥールのいうような線条的直進と堆積的遡及の二重性というだけではない、よりアナクロニックな運動をおこなうものだろうし、それゆえ「実体」の航路もより紆余曲折を見せるのではないだろうか。「実体とはなにか」は、まさしくアリストテレス以来の形而上学の問いであり、この形而上学の問いに答える(応える)ことこそが――浅薄な形而上学批判からは遠く隔たって――いままさに必要とされているように思う。