The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学 非歴史性のストア主義について」 (シリーズ・古典転生)』(江川隆男訳、月曜社、2006年)

初期ストア哲学における非物体的なものの理論―附:江川隆男「出来事と自然哲学 非歴史性のストア主義について」 (シリーズ・古典転生)


エミール・ブレイエ(Émile Bréhier, 1876-1952)が、初期ストア主義哲学を、「非物体的なもの」に着目しつつ、おもにプラトンアリストテレスとの差異のなかで論じた書物。

「相互に作用しあう実体たる物体」と「いかなる作用ももたない非物体的な事実(出来事)」という新たな二元論によって、ストア主義者たちは、「不動なる知性的なもの」と「不定なる感性的なもの」の二元論のもとにあった自然学と論理学の革新をおこなったのだと、ブレイエはいう。この宇宙のなかではすべてが相互に作用しあい、とどまることなき「コスモポリティーク」(この語にブレイエ自身は言及していないが)を織りなしている。だが、そこから創発する「出来事」は、その相互に作用しあう「実体」のもつ「力」のあらわれ、その実体の限界であって、それ自体は物体的でないし、なにものにも作用せず、作用を受けることをもない。まるで〈エネルギー/情報〉の二元論のようなこの新たな二元論から帰結するのは、論理学と実在認識との区別である。

この実在認識が新プラトン主義のほうへと向かっていくことが示唆されているのを、個人的には興味深く読む。実在の認識は観想というよりもはるかに能動的なものであり、対象の獲得であり、対象への浸透であるという。いかなる作用ももたず、また作用をこうむらない非物体的な「出来事」ではなく、相互に作用しあう物体的な「実体」との相互的な関係へと入っていくこと。論理学と実在認識が分断されるというのは、いわゆる唯名論的な(さらには懐疑論的な)発想へと通じているようにも思えるのだが、それでもストア主義は実在認識を断念することはない。懐疑論者たちに対してストア主義が提起した「把握的表象」は、懐疑論との親近性ゆえにパラドクシカルにも見える実在認識と論理学の分断(実体と出来事の二元論から帰結する分断)を念頭におかなければ、その十全な意味を理解できない。この捩れをもう少し考えてみたく思う。