The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

アナロジーにむけて

Enzo Melandri, La linea e il circolo. Studio logico-filosofico sull'analogia. Bologna : Il Mulino, 1968; Macerata : Quodlibet, 2004.
Enzo Melandri, L'analogia, la proporzione, la simmetria, Milano : ISEDI, 1974.



アナロジー、類比、類推について考えるのは、どうしてこれほど困難なのだろう。あるいはその助けとなり、導きともなるかもしれない、エンツォ・メランドリの二冊の書物。
かつてパースのアブダクションからはエーコが、シモンドンのトランスダクションからはドゥルーズが、そこに含まれていたアナロジーへの洞察を取り除き、あるいは覆い隠してしまったようにも見える。スタフォード、あるいはレイコフ、もしくはカッチャーリ、今日アナロジーが必要で必然だと口にする者はそれなりにいるにしても、アナロジー自体についてはほとんど理解させてくれないとの思いは拭い去れない。

アガンベンは、『事物のしるし』のなか、メランドリに触れながら、アナロジーのことを、普遍から個別にいたる演繹(デダクション)でもなければ、個別から普遍にいたる帰納(インダクション)でもない道として語る。アナロジーは、アガンベンによればパラダイムと同じく、個別から個別へと進むという。もし個別について、個体について、アナロジーなしに思考しようとする試みが、「無からの創造」という神秘を最後まで残してしまうのだとすれば、それは実のところ、アナロジーこそが個体を思考することを可能にするからなのかもしれない。

おそらくフッサールについての研究で名を知られつつも、けっして現象学者だったとはいえず、論理学者として分析哲学に通じながらも、新実証主義ほかイタリア分析哲学の流れからは距離をおいていたように見える、イタリアの哲学者エンツォ・メランドリ。そのメランドリを、アガンベンフーコーになぞらえる。けれども、個人的にはブルーメンベルクとの近しさを感じさせられもする。メランドリは思想史をフィールドにしていたとはいいがたく、むしろ論理学をこととしていたにしても。アナロジー、メタファー。論理のなかで論理のてまえに遡航し、概念のなかで概念のてまえへと遡航する。

Enzo Melandri, La linea e il circolo. Studio logico-filosofico sull'analogia. Bologna : Il Mulino, 1968; Macerata : Quodlibet 2004.

エンツォ・メランドリ『線と円――アナロジーについての論理哲学研究』(1968)


 「アナロジー」という主題は、生き、感じ、考えるという人間的な様態を実践において統御している理性的な原理――「論理」ではなく――の探究にとって、導きの糸、試金石、批判的な導入の役割をはたす。論理学の観点からすれば、アナロジーはいまだ説得的な体系化を見いだしておらず、今後見いだされるかどうかも疑わしい。アナロジーにはなにかしっくりこないものが、厳密な言説の宇宙からの追放を帰結するようななにかがあるのだ。しかしながら、論理においてアナロジーが拒絶されたあとも、アナロジーはなんの欠陥もないかのように使われつづけている。信頼されつづけているわたしたちの精神の習慣をもっとも先入見のない仕方で見なおすには、いくつかの問いを提起するだけで十分だろう(アナロジー的な理論を証明するものとはなにか、どこまで論理的に考えられるのか、論理はいかなる限界内で理性的なものの規範なのか、メタファーと概念とを区別できるのか、いかなる条件で科学的客観性について語ることができるのか)。哲学の観点からすれば、アナロジーはかけがえのないものである。アナロジーは、科学的認識(個別)と哲学的意識(普遍)とを媒介する主要な道具である。別の言い方をすれば、アナロジーとは、論理と弁証法とを媒介し対置するシンメトリーの原理なのだ。プラトンによれば、シンメトリーにはふたつの異なった原理があるという。「線」と「円」である。このふたつの秩序づけの原理の対立から、アナロジーをとおして、多くの重要な帰結が、また最終的なものではないが哲学の復権が導きだされる。その哲学とはまさしく、形而上学でも純粋な批判でもなく、未来についての正確でひかえめな想像力の詩学たらんとする哲学である。

Enzo Melandri, L'analogia, la proporzione, la simmetria, Milano : ISEDI, 1974.

エンツォ・メランドリ『アナロジー、プロポーション、シンメトリー』(1974)


 「アナロジー」はわたしたちの誰もが使用する。しかも、日常の語らいにおいてだけではない。わたしたちの誰もが、発見において、科学的な綜合において、創造的な思考において、決まり切った図式の打破において、アナロジーのはたす機能を知っているのだ。とはいえ、この思考の形象は、それなしでは学習も経験も知的発達も思考そのものも不可能だろうにしても、今日の哲学と文化のなかでは公認された地位を欠く結果となっている。それはたしかに偶然のことではない。まさしくこの主題をめぐり、そして同一で隣接した「プロポーション」や「シンメトリー」をめぐり、研究がはじめられるのも、同じように偶然のことではない。この研究が批判しようとするのは、新実証主義の伝統たる計算的合理性と、理性のあらたな実体論という退行的な誘惑とのあいだで、ますます悪化の一途をたどる場の分割である。問題はそれだけではない。あまり主題化されてこなかった概念の分析をとおして、現代の哲学と古典的な哲学との比較がなされることになり、その結果、唯物論的にして弁証法的な思考の道筋が提起されるのだ。
 言語についての反省に支配された現代哲学の舞台上では、エンツォ・メランドリの言説は実のところ周縁的な立場にある。あらたな動機から、言語を論理計算へと還元するあらゆる主張に対する反証を取り上げるにしても、それによってメランドリは言語の意味論的な発想を正当化するわけではない。そのような発想は、言語を意味の牢獄としてしまう。そうして、そこからの解放の空間を、異論理的なものという思考しえない論理に追いやってしまうのだ。言語において言語とはほかのなにものかが――けれどもつねに言語の項で表現されたなにものかが――示されるという事実は、研究にかかせない根拠を「アナロジー」の形象に与える。研究は、この書物では、侵犯と規制というふたつの必要で矛盾した契機の共存を、言語事象そして言説主体において浮き彫りにすることからはじまる。そうしてここで説明されるのは、翻訳の事実を理論的に正当化しうるようなアナロジー的なコミュニケーションの可能性である。それにより、永久にその結果が繰り延べられている意味の宙吊りとコミュニケーションとのあいだの駆け引きは、あらたな光を受け取る。この駆け引きは、文化の生であり、また文化が生ととりもつ進化的な関係の法則をなしている。そのようにメランドリの言説は、解釈の正統性で立ち止まりもしなければ、記号学の正統性に閉じ籠もりもせず、もの自体の召還によって思考=実在の円環を回復する。このときもの自体は、より神秘的な自我によって生じるような、原理の要請にとどまりはしない。これは、今日、哲学的には周縁の立場である。というのも、あまりにも古典的だからだ。アリストテレスからトマス、カント、フッサールまで、あらゆるドグマ的な偏向から解放されて、明証の可能性と限界という主題が取り上げなおされる。この解放にともなうのは、合理性としての論理――科学の論理も含まれるが、それに還元されはしないような――という考えの遺産相続だけではない。さらに、思考の進化という弁証法的な考えにおけるその遺産の発展をもともなっているのだ。そのような思考は、哲学の言説において、現代の知のもっとも根源的な主題の数々をはてしなく取り上げなおし、同時に、いまだ知となっていないものの形象を素描することを認める。それは、理論的固有化の、場合によっては実践的決断の、仕事場である。そのとき、「イデオロギーのグラン・ギニョール」のあらゆる理論的要求を失墜させるという典型的に理論的な関心は、哲学によって隔てられた空間を指し示しはしない。というのも、そのような関心は、危険な混同を避け、ふさわしい自律性を政治的実践に回復させるからだ。自律性は、あまりにしばしば、政治的実践に取って代わったと想像される言説から剥奪されることが望まれている。このエンツォ・メランドリの哲学として明かされるものは、現実と妥協するのであれ、その妥協をドラマとして生きるのではなく、その妥協を真摯に支えるだろう。ときおりまさにその問題性との対峙によって波立つものの、けれどもつねに気の利いたアイロニーオーケストレーションされた筆致から透けて見えるように。


この機にもうひとつ、すこしまえに再刊された書物『象徴的なものに抗して』。

Enzo Melandri, Contro il simbolico. Dieci lezioni di filosofia, Firenze : Ponte alle Grazie, 1989; Macerata : Quodlibet, 2007.

エンツォ・メランドリ『象徴的なものに抗して――哲学十講』(1989)


 この書物にまとめられているのは、ひとつの完結した連続講義である。この講義なか、メランドリは、多様な文化領域への所属の対立ないし学派の対立をこえて、あるいはそうした対立のてまえで、哲学思想研究最大の諸テーマのうちにひとつの道筋をかたちづくる。それがなされるのは十の項目を通してのことだ。すなわち、「論理」「言語」「実在」「形而上学」「主体と意識」「信念と想像」「欲望と意志」「存在と当為」「倫理と政治」「死と有限」である。
 実在のあらゆるイメージは象徴によって統治されている。象徴が可能にするのは、名づけ、喚起し、実在の意味を伝えること、共通で共有された「意味」を世界に与えることである。ギリシア人たちにとって「シュンバレイン」とは、個人的な経験と出来事とによって細分化され分裂してしまった「全体の再構成」を意味した。しかしながら、象徴には、世界の意味を固定しようというソクラテス=プラトン的な最初の行為からしてすでに、ひとつの純粋な形式へと硬化してしまう傾向がある。象徴の生じてきた根源的に「経験的」で主体的なその根が、忘れ去られてしまうのである。
 それゆえ、象徴的なものを「再活性化させる」ために、形式を生じさせた機能を把握するために、象徴的なものに抗して、実在のあらゆる意味を生みだす起源的なはたらきへと――適切なイメージの考古学をとおして――後退する必要があるのだ。

いずれ、『フッサールにおける論理と経験』(1960)、『無意識と弁証法』(1983)、『心理学と社会科学の主題による七つの変奏』(1984)、『フッサールの論理学研究』(1990)、といった書物も再刊されることを待ちながら。