The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』(橋本一径訳、平凡社、2006年)

イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真


ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(Georges Didi-Huberman, 1953- )が、アウシュヴィッツの四枚の写真を分析しつつ、表象不可能性に対してイメージや想像の重要性を論じた書物。

翻訳されたのであらためて読み返したが、イメージについての思想の射程の広がりをふたたび強く印象づけられることになった。「表象不可能性」を語ることを問い直したこの書物は、ややもすれば「現前の形而上学批判」の文脈に回収されがちなディディ=ユベルマンの理論がそれだけには収まらないことを、はっきりと示しているように思う。

とはいえ、第二部は、ジェラール・ヴァジュマン*1とエリザベト・パニュによる激しい非難への反駁として書かれているためか、そもそもの出発点(イメージは「全」でも「無」でもない、という「現前の形而上学批判」)の確認に終始しているきらいがある。そのため、第二部の論争を追うだけでは、ディディ=ユベルマンの議論の射程はそれほど明確にはならないように思う(政治的あるいは倫理的な帰結は別として)。実のところ、より積極的で生産的な議論は、むしろ第一部のほうに示唆されているだろう。そこで示唆されていたのは、「類似」の問いの重要性である。

イメージが「全」でも「無」でもないという事態は、これまで「不在の現前」というようなクリシェで語られがちだった(それゆえ、「現前の形而上学批判」の文脈に回収されてしまって、それ以上先に進まなかった)が、ディディ=ユベルマンは「モンタージュ」によってその事態を捉えようとする。イメージは「全」でも「無」でも「一」でもなく、つねに複数のイメージのモンタージュなのであり、そのモンタージュが明らかにするのが「類似」という事態である。完全に断絶し、いかなる共通性もないかのように思われるところに、イメージ=モンタージュは類似を生みだしていく。この類似こそが、人間を人間たらしめているのであり、だからこそ、アウシュヴィッツに囚われた人々は、生命の危険を冒してまでも、イメージ=類似を保持しようとしたのだ、とディディ=ユベルマンはいう。

けれども、ディディ=ユベルマンはその「モンタージュ」を、一方では「類似」によって捉えようとしながら、他方では「二重の体制」「両極性〔分極性〕」「弁証法」として捉えようとしてしまう。だが「両極性」のような相互排他的な二項関係は、ディディ=ユベルマンが批判しようとしている思考にむしろ接近してしまうのではないだろうか。モンタージュを、両極性のくびきから解き放ち、より類似の問いのほうへと導いていく必要があるだろう。

*1:「ヴァイクマン」ではなく「ヴァジュマン」と読むのが正しいとの旨が、「写真的信仰について」の翻訳(『月刊百科』2006年8月号−)に書かれていたため、「ヴァジュマン」に修正。2006年9月9日。