The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 エンゲルハルト・ヴァイグル『近代の小道具たち』(三島憲一訳、青土社、1990年)

エンゲルハルト・ヴァイグル(Engelhard Weigl, 1943- )が、ガリレオからフンボルトにいたる近代の科学器具の使用について、思想的、歴史的、社会的な角度から考察した書物。

望遠鏡、顕微鏡、寒暖計、時計、測量器、避雷針など、17世紀から18世紀にかけて発明され、 改良されたさまざまな科学器具が、人間の認識を拡張し、変化させ、人間の思考と感情、社会や制度のあり方を変貌させていったさまが、ハンス・ブルーメンベルクによる思想史を下敷きにして、手際よく概観されていく。認識論における直観と抽象の錯綜、信仰や迷信と啓蒙との奇妙な混淆、そして個人と集団、個別と普遍、横断性と専門性のあいだの振幅といった問題群が、具体的な事例に沿って語られ、多くのことを教えられる。

直観から抽象へ、そしてまた直観へ。道具や器具による認識の拡張は、ガリレオにおいて、一方ではテクストに対する感覚の優位を導き、他方では人間身体の感覚の相対性を帰結することで感覚の優位を打ち砕く。その錯綜した動きに対して、ハンナ・アレント(およびエトムント・フッサール)が下した判断(ガリレオは直観と生活世界を捨て去って、抽象と近代科学の道を切り開いた)と、ブルーメンベルクが下した判断(ガリレオは、抽象をふたたび直観にひきもどそうとしてしまった)とが擦れ違うさまを見ると、このふたつを単純に対立させることができないことをあらためて印象づけられる。この錯綜は、観察と思弁を結び合わせたフンボルトにも引き継がれる。

ほかにも、定点の発見の重要さが印象に残る。同じ道具の使用は、かならずしも観察結果の普遍化可能性、相互の翻訳可能性をもたらさない。同じ道具の使用ではなく、定点の発見こそが、普遍化を可能にする。そのさまが、寒暖計の発展を通して語られていく。では、定点の発見とはどういうことだろうか、定点はいかにして共有されるのだろうか。定点の共有とは、バシュラールの言うような手続きの共有なのだろうか、それとも対象の共有なのだろうか、それともそのように分割するべきではないのだろうか。寒暖計の事例は、さらなる読解が可能だし、必要でもあるだろう。