The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 エドガー・ヴィント『芸術と狂気』(高階秀爾訳、岩波書店、1965年)

エドガー・ヴィント(Edgar Wind, 1900-1971)の美学(ひいては哲学)がもっとも明快に展開されている瀟洒な書物(原著1963年)。

『残存するイメージ』のなか、あれほどエルヴィン・パノフスキーとエルンスト・ゴンブリッチに対して舌鋒鋭いジョルジュ・ディディ=ユベルマンが、ヴィントに対してだけは好意的だったのが記憶に残っているが、この書物を読むと、たしかにそれも肯けることだと思える。ヴィントは、形式主義者たちが芸術のもつ情念的な力を直視していないことを批判し、プラトンに「神的な恐怖」を抱かせたその芸術の力を、模倣の観点から、つまり人間の可塑性から捉える。感情から模倣、そして変身へ。

けれどもさらに重要なのは、ヴィントによればこの芸術の力が「知識」と不可分のものだということだろう。この書物のなか、形式主義と並んでロマン主義が批判されるのも、そこから来ている(その意味では、モレッリをロマン主義のあらわれとして批判するという意外な展開は、象徴的なものかもしれない)。「博識に対する誤った不信は、空を飛ぶのに空気が邪魔になるから空気がなければもっとずっとよく飛べるだろうと思ったというあのカントの鳩と同じ誤謬に容易に落ち込む危険を持っている」(161頁)。

形式主義ロマン主義に同時に対峙したこのヴィントの立場は、もちろん、「人文主義」と、「ヒューマニズム」と呼び慣わされるものだ。一九世紀ドイツ古典主義の「ヒューマニズム」こそが、ヴィント、さらにはアビ・ヴァールブルクの思索の土壌だった。このことは、幾重にも注意する必要がある。一九世紀ドイツのヒューマニズムはたしかにルネサンスにイタリアから発したヒューマニズムと実のところ異なるものだし、その意味ではフーコーが「ヒューマニズムは一九世紀に発明されたものにすぎない」と言うのも間違いではない。けれども、そのドイツ古典主義的なヒューマニズムもまた博愛主義(ひいては人道主義なるもの)へ批判として登場し、文献学と歴史考証を武器にして、知に根ざした芸術の情念的な力――形式主義ロマン主義もこれを直視しなかった――に対峙したのだから。