The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(野谷啓二訳、洛北出版、2006年)

何も共有していない者たちの共同体


 アルフォンソ・リンギス(Alphonso Lingis, 1933- )が、共有にもとづかない共同体の在り方を、「死」や「他者」との対面のうちに見いだそうとした書物。

 リンギスは、おそらくエマニュエル・レヴィナスに倣い、同じものを共有することにもとづく「理性的〔合理的〕な」共同体の基底にあって、それとは異質の共同体を、他者との対面のうちに、そして死に立ち会うことのうちに見いだそうとする。そのなかで執拗に主張されていくのは、理性や合理性に還元できない感覚や情念であり、剥き出しの事実に還元できない価値の力である。感覚、情念、価値、といった付加的と考えられがちなものこそがすべての根底にあることを、思わぬ体験談や逸話をちりばめながら魅力的に語っていく。

 そうしたリンギスの叙述のスタイルは中期のミシェル・セールを(とりわけ『五感』、あるいは『離脱』を)彷彿とさせ、こう言ってよければ、セールのなかにレヴィナスを注ぎ込んだかのような印象を受ける(もちろん、ニーチェ的なところもあれば、バタイユ的なところもあったりするが)。とはいえ、それだけにリンギスの限界もはっきりと見えてしまう。とりわけ、「世界のざわめき」の章でのリンギスによるセールの誤読に、それははっきりとあらわれているだろう。

 その「世界のざわめき」の章は、何十年も前のセールの議論そのままのなかにレヴィナス風味を混ぜたようなものだが、そこでリンギスは、セールが批判しているものをセール自身の立場とするという誤読をしている。セールはすべてのノイズ〔=パラジット〕の排除を「批判」しているのであって、それを「切望」していたりはしない。リンギスの参照するセールのディアレクティケー論でも、対話者は互いに「他者」として姿をあらわしているように見えながらも、実際には互いに互いの似姿として(同一者として)協力し合い、いまここにいない第三者を排除していることを(批判的に)示唆していた(セールの叙述はたしかにわかりにくいにしても)。つまりは、対話の過程で互いに反転しあう一人称と二人称は決して非対称的な他者関係にはなりえず、そこから三人称という真の他者(正確には「他者」というべきではないが)を排除してしまうことを示唆していたのだった。このモチーフは、初期のセールでは一貫して主張されつづけているし、その後も、第三者を排除する二者関係という「倫理」ではなく、第三者を包摂しうるような「道徳」を目指すというかたちで主張されている。一人称と二人称の関係が決して対称関係と考えられないことを指摘する点では、リンギスの主張もそれなりに説得力があるだろうが、その指摘はセールの考えに比べればいくぶん中途半端なものであり(セールはリンギスと同じくノイズの排除を批判するとともに、リンギスとは異なって反転させただけのノイズ称揚も批判する――というのも、ノイズの排除もノイズの称揚も結局は同じ暴力の助長に行きつくからだが――うえに、「倫理」の限界を見定めて「道徳」「正義」の水準に議論を移していったという点で)、それでもってセールを批判することは錯誤といわざるをえないように思う。

 このリンギスによる誤読は、おそらくひとつには、一人称−二人称関係と三人称関係との差異に無頓着であることから引き起こされている。そしてその原因のひとつとしては、リンギスの(いくぶん過剰とも思える)レヴィナスへの依拠があるように思う。事実、この書物での核心部分の多くはレヴィナスに大きく依拠している。けれども、三人称の関係が他者との対面関係(一人称−二人称の関係)に還元できないことは、すでにレヴィナス自身が示しているのではないだろうか(レヴィナスにおける三人称の問題は単純ではないが)。にもかかわらず、リンギスはそのまま素朴に対面関係のみで押し切ろうとしているように見える。その結果、いわばニーチェ的なカント批判というような決定的に足りない水準に議論が終始してしまっているのではないだろうか。感覚、情念、価値の力を指摘するリンギスはたしかに正しい。けれども、それがただの理性への批判に終始しているかぎりは、残念ながらその正しさは生きてこないように思う。その語りがいかに魅力的なものであろうとも。