The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

多木浩二「装飾の相の下に」

多木浩二「連載/装飾の相の下に」(全10回)、『SDーースペース・デザイン』第100号〜第103号、第106号〜第110号、第112号、1973年1月〜12月

 

芸術とも技術とも異なる装飾を、モダニズムは排除しようとしたが、それでも装飾はただ見かけを変えただけで残りつづけた。実のところ装飾は、多木によれば、人間にとって実存的な身振りであり、生きる場を構成するものであって、無意識に結びついてさえいる。だから物語でも描写でもないのに想像を掻き立てる。事物を空間に関係づけてイリュージョンの世界を生み出す。人間の自然本性を解放するために反自然的かつ人工的な世界をつくるものなのだ。

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扉口や窓などにあらわれるふちかざりは、境界という現象のパラダイムであるとともに、知覚とは異なる「現実との生命的な接触」たる「共感」(ミンコフスキー)ないし「内触覚」(ハーバート・リード)を示すものでもある。地と図を分節し、外と内の境界となることで、情報や意味をも分節するものだ。窓としての遠近法もこの枠づけの機能に関わる。それは人間の行動の空間的・身体的構造に根差すがゆえに、身体の境界にも王冠や腕輪としてあらわれる。

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認識の端緒であり意味の変形であるような「装飾的思考」は、図式化としての同化と謎化としての異化の二重の作用においてはたらく。装飾の適用される場、装飾のメディアは、物理的な形状ではなく文化的な図式であって(たとえば同じ壺でもミノス初期では「球」でありアッティカ幾何学様式では「直立形」)、装飾のモチーフはそこに同化されることで異化されて記号性を帯びる。人工のなかの自然、幾何のなかの説話、無意識のなかの意識だ。

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アンリ・フォシヨンとジャン・ピアジェを踏まえながら、多木は装飾という空間組織に人間の原初的な思考を見て、その空間組織の基盤にリズムを、そしてリズムを導く図式としてのステレオタイプを見いだす。装飾のモチーフが自然物から取られているのであれ、装飾を成立させるのはその自然物よりもそれを図式化するリズムであり、その図式となるステレオタイプである。その根源にステレオタイプがあるゆえに装飾は、ひいては人間の文明は、キッチュを捨て去ることができないだろう。

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装飾の基本原理とも言うべきシンメトリーには、ルネサンス建築の円形プランのごとく求心的で中心化するものと、バロック建築の楕円形プランのごとく遠心的で自己増殖するものとがあるが、いずれも自然から自立した法則性を示す。それゆえエジプト美術から象徴主義絵画まで、シンメトリーは世界の無秩序および死への抵抗として形成されてきたように見えるという。その根本には身体のシンメトリーがある。だが、宇宙を人体のアナロジーが消滅した現代では、シンメトリーはむしろ終末的なイメージを思わせるともいう。

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装飾の基盤には世界像と自我の不一致があって、シンメトリーが古典主義的な安定を与えつつも世界をコスモスとカオスに分裂させてしまうのに対し、マニエリスム的装飾はその分裂した生と死の境界にあらわれるという。マニエリストの自動人形から現代人のガジェットまで、装飾としての機械はこの分裂を「自動性」のイメージ――ベンヤミンの言うミッキー・マウスの奇跡――でもって縫合する。これが消費社会の疎外の根底にあり、バイクや自動車などの機械へのさらなる装飾はその疎外を示しつつ抗うものだ。

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装飾は空間を生の痕跡でもって、もっと言えば記憶でもって満たし、それゆえ空間ばかりでなく時間の隠喩にもなる。装飾において、装飾として、はたらく記憶は、個人的な思い出を追想させるだけのものではなく、一方では神話的記憶とも言うべき認識の図式をなしている象徴から、他方では消費社会のエキゾティシズムと感傷をくすぐるにすぎない記号まで、大きな振幅を示す。多木は前者を根本的なものと見ながら後者を批判し、そこに記憶と記録が分離して記録ばかりが溢れている今日の状況を結びつける。

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レヴィ=ストロースが料理について論じたような自然と文化との分節の観点から装飾をとらえると、装飾は自然のモチーフを図式化して文化に変容する一方で、その文化の空間に自然を回復しようともするものだ。プラスチックの造花はその現代的でキッチュな一例だが、歴史を通しての典型はなにより庭園だろう。多木は自然と文化が理想的秩序において一致するようなこの分節の操作を、アナロジーとしてだけでなくホモロジーとしても剔抉する。カルダーのモビールは、自然の外見をもたないが、自然のはたらきと相同的に作用して美を示す。

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多木は身振りをも肉体の装飾と見て、その身振りを引き立てる衣裳、さらに身振りをともなって使われる道具も、機能という以上に装飾として位置づける。もちろん生活のなかでの動作の多くは機能的なものだが、その動作をその人らしいものにしている身振りがかならず重なり合っている。ピンナップ写真やファッション写真はその身振りをポーズとして利用する。住居や都市までを身振りの延長線上に位置づけるのは無理だが、しかし社会的空間の歪みは身振りに反響し、そうして身振りは終末や未来を予感しうるだろう。

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装飾を昇華として見たシュペングラーと、むしろ始原として探った篠原一男とを対比しながら、多木は装飾がリアリズム以上に時代の徴候を示すとする。レヴィ=ストロース抽象絵画に認めなかった二重分節は、多木によれば、たとえ抽象的であろうと装飾にもあり、装飾の徴候的意味はモチーフやパターンよりもそれらの結合分離の操作からあらわれるという。かぎりなく人工的でありながら、それによって自然になろうとする装飾のパラドクシカルな操作は、そうして現実を隠蔽もすれば否定もしうる。