The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ』(米山優監訳、昭和堂、2006年)

ヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ


ピエール・レヴィ(Pierre Lévy, 1956- )が、virtuelと呼ばれるものを、hétérogénèseという視点から広く人類学的に位置づけ、考察した書物。

ひところジャン・ボードリヤールやポール・ヴィリリオなどの名前とともに流行ったヴァーチャル化による「現実の喪失」とか「シュミラークルの社会」とかいう考えを明に暗に批判しつつ、レヴィは、一般に「ヴァーチャル化」と呼ばれている運動が、言語、技術、契約などとして古くから広く見られる運動であり、けっして「現実の消去」を引き起こしはしない、とする。むしろ、言語、技術、契約(近年の情報技術やサイバースペースもこれらの延長線上にある)といったヴァーチャル化は、現実を「異型発生」「生成変化」させるのだということを、ジル・ドゥルーズの議論をうまく踏まえながら、actualisation/virtualisation/potentialisation/réalisationの概念を使って論じていく。その議論は、「ヴァーチャル・リアリティ」や「サイバースペース」のような語から想像されるものよりもはるかに射程が広い。

レヴィの論じるvirtualisationというのは、ドゥルーズなども介して、容易にジョルジョ・アガンベンpotenzaの議論に結びつく。とはいえ、あくまでアガンベンが現勢態のことを潜勢態の否定の否定として考える(「現勢化しないことができるのではないことができる」のが現勢化した潜勢態であり、それゆえ現勢態と潜勢態とは完全に相容れない)のに対して、レヴィの現勢化と潜勢化は、相互に作用し生成変化を引き起こす。ここから、純粋な潜勢態を目指すアガンベンと、絶えざる生成をかたちづくる「対象=客体=客観〔objet〕」を目指すレヴィとの違いが出てくるのだろう。

この「objet」は、もちろんミシェル・セールに由来している概念であり、レヴィの場合においても、科学哲学者セールの初期からの問題である「référence」の問題と密接に関わっている(実はアガンベンの『スタンツェ』での議論にも接近していたりするが、objetを「無(=純粋な潜勢態?)」と捉えるアガンベンの議論とは決定的な点で異なるだろう)。というのも、objetはobjectivationによってobjectivité〔=客観性〕をもたらすからだが、さらにこれは科学=学問の客観性だけではなく、共同体の問題、レヴィの専門の「集団知能」の問題にもつながっていく。読んでいるかぎりでは、レヴィの立場は、同じくセールの影響を受けたブリュノ・ラトゥールよりも、ドゥルーズホワイトヘッドに傾倒するイザベル・スタンジェールに近いように思う。この著作の最後近くでホワイトヘッドに言及されるのも、そうしたことがあるのかもしれない。

とはいえ、この短い書物だけでは、簡潔すぎてその射程が把握できないものが多い。レヴィのこの書物には、ひじょうに洞察力のある示唆と妙なまでにナイーヴに感じられる見解とが織りまぜられている(セールにもこうした印象は受けるのだが)ために、そのナイーヴさに足下を掬われてしまわない読解が必要となるだろう。そのためには、セールやホワイトヘッド、あるいは最近読み進めているジルベール・シモンドンなどの、レヴィと近しい発想をする哲学者と重ね合わせてみるのも良いかもしれない。