The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

平倉圭『かたちは思考する』

平倉圭『かたちは思考する』、東京大学出版会、2019年

 

形象の思考と力とが、形象を布置において理解することで、統合される。布置(dispotision)は構成(composition)に比して分散的であり、巻込の作用によって力を揮い、思考を広げる。ホワイトヘッドからアンディ・クラーク、またミシェル・セールからブリュノ・ラトゥールまで、物質的布置がそのまま思考でありうることは、つとに提起されてきたが、その思考は本書『かたちは思考する』でかくもはっきりと力に結び合わされる。プラクシスとしてのイメージ、アクティオーとしてのイメージの理論化の最新形と言うべきか。

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類似による認識の結節点を、アガンベンは「しるし」と名指したが、本書『かたちは思考する』では韻、うなり、叫び、グルーヴというように、イメージとしてよりも音響的に把握している。イメージではなくリズム、像ではなく韻をパラダイムにしたとき、類似はその連鎖する時間的展開において成立する。思考が、内的には抱握の連鎖による記号過程であり、外的には行為体と環境のギャップの調整作業であるのなら、類似がそのように連鎖するものであることは重要であるにちがいない。レヴィ=ストロースの示す構造も、変換が音楽のごとく連鎖するがゆえにそれ自体で思考であるのだから。

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前著『ゴダール的方法』に取り憑いていた類似の不安は、本書『かたちは思考する』で押韻の不安へと深まる。アスペクトはそれ自体で伝達も保存もされえないがゆえに、類似や押韻には即物的な根拠がなく、ただはてしない付帯状況があるばかりだ。ダミッシュの引くポントルモの言葉が示唆するのも、まさしく絵画とぼろきれとがそうしたアスペクトの差でしかないこと、芸術のすべてがそのあるかなきかの差にしか存していないことだ。だが押韻の不安は、本書所収の新しい論考ほど弱まり、代わって環境との協調、付帯状況の巻込が強まっているように思う。これらは反比例の関係にあるのか。

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作品に近づき、遠ざかり、また左右や上下から覗き込むというように、作品の記述にそれを見る身体動作の記述が加わっている。これは、見ることもまた一つの制作行為であること、少なくとも制作の布置を解く行為であることから来ているか。そして文章と図表はその行為の指示書となる。パノフスキーが、美術史は芸術作品の再創造を可能にするような再構成的な言語によってしか書かれえない、と指摘したことを思い出す。だがさらに、もしスミッソンの示唆するごとく、移動こそがスケールの変換とスピードの切替によって文を、図を、生み出すのなら、書くことも見ることも等しく舞踊のごとき運動であるだろう。

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形象の思考を理解することがその制作をなぞることなのだとすれば、それが文章と図表への翻訳であるとはいえ、しかしまた身振りをなぞる舞踊、ダンス、という様相を呈する。本書『かたちは思考する』を読む経験が強く身体に訴えかけるのもそのためか。舞踊ということではさらに、無知の技法について語ったアガンベンの示唆も思い出される。舞踊とは知と無知の優美な調和でありうるのか。