The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 山内志朗『天使の記号学 (双書・現代の哲学)』(岩波書店、2001年)

天使の記号学 (双書・現代の哲学)


中世スコラ哲学における天使論や聖霊論を、コミュニケーション論や身体論として読み解いていく書物。

この書物の中心的な問題となっている「純粋なコミュニケーションを目指すことがコミュニケーションの排除に陥ってしまう」という「天使主義」のパラドクスは、おそらく「社会の分裂の統合をめざすことが最大の分裂を招く」という全体主義のパラドクス(マルセル・ゴーシェ)や、「普遍化の暴力性を避けようとして普遍性を拒否することが暴力の普遍化に陥る」というパラドクス(ミシェル・セール)などとも同型的なものだろう。このパラドクスを回避するためには、断絶でも融合でもない媒介の仕方を探らなければならない。この書物では、その媒介の仕方を、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの〈存在〉の一義性論のうちに求める。そこで明らかになるのは、「本質→現実存在」という「生成」のプロセスとしての「存在」であり、これが「コミュニカビリティ→コミュニケーション〔によるコミュニティの成立〕」というプロセスとしての「コミュニケーション(における言語や身体)」に重ね合わされる。この新プラトン主義(プロティノス)的な図式「被限定項+限定項→限定態」は、一方でアリストテレス的(「可能態→現実態」)でもあるのように感じるが、ともあれ、「天使主義」の誤りはこの生成プロセスを限定態(「現実存在」「コミュニティ」)のみに還元できることと考えることであり、逆にベンヤミン的な発想の誤りはこの生成プロセスを被限定項のみに還元しようと目指すことである、ということになる。両極端の純粋さを限定し媒介するプロセスとして、存在もコミュニケーションも捉えなければならない。

この媒介の捉え方をコミュニケーションにおける言語だけでなく欲望や肉体に適応しているのも、この書物の面白さだろう。欲望を限界づけ、導くのはまさしくに肉体にほかならず、肉体を取り払うなら、欲望を排除できるどころか欲望を無際限なものにかえてしまう、という指摘など。とはいえ、カントやラカンなどの(観念論的な)図式論を参照しているためか、あまりうまくいっていないようにも思う。あるいはカント/ラカン的な身体図式の位置づけの曖昧さ以前に、そこにとどまりえぬものとしてであれ、手前や彼方に「純粋なもの」を想定した理論化をおこなっている、という点に問題の根幹があるのかもしれない。たとえ権利上のものにすぎなくともそうした「純粋なもの」を理論のうちに取り込んでしまうと、それこそが根源的なものであり、それを目指すべきだとするグノーシス主義(あるいはロマン主義でもアヴァンギャルドでも)的な発想に足下を掬われてしまいがちであるように思う。「実体」論的な発想を批判して「生成」論的な発想をしたところで、その「生成」の発想が「純粋なもの」を理論上必要とするなら、それは「実体」論的な思考の弊害を免れることはできない。ここに、おそらく「生成」という発想の限界がある。