The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 坂口ふみ『“個”の誕生―キリスト教教理をつくった人びと』(岩波書店、1996年)

“個”の誕生―キリスト教教理をつくった人びと


ヘレニズムからビザンティンにかけてのキリスト教の教義論争を辿ることで、「個」としての「ヒュポスタシス=ペルソナ」という概念が形成されていく過程を辿った書物。

東欧のギリシア教父たちによる三位一体論やキリスト論が、アリストテレス的な存在論を論駁しつつ独自の存在論(?)を形成した(その意味で、スコラに至る西欧キリスト教哲学は、東欧のギリシア教父たちの新たなる存在論から古いギリシア的な存在論への回帰=後退でもあった)とも言いうるということはまえから知っていたが、「ウシア」「ピュシス」「ヒュポスタシス」という三つの概念の分化のさまが丁寧に辿られていて、その具体的な諸相をよりはっきりと掴むことができたように思う。

「三つであると同時に一つである」「神であると同時に人間である」というギリシア的発想からすれば明らかに矛盾したものを、いかに「論理的に」説明するのか。神学だけでなく、哲学や政治や社会をも巻き込んだこの論争は、そのまま美学と芸術にも直結するだろう。というのも、この書物のなかで辿られている教義論争のすぐあとに、まさしくその反復であるかのごとく、イコノクラスムが起こるからだ。キリストを描いたイコンを崇敬することは、キリストを崇敬することになるのか。この問いは、「神であると同時に人間である」というその両義性から生じている。キリストの存在の両義性は、イメージの存在の両義性と類比される。イメージは、それが写す/映す/移すものであると同時にそうではない。ふたつのものの不可能な結合と媒介。

この両義的な結合が、「ヒュポスタシス=ペルソナ」という概念に結実する。西欧の近代においては「人格」となっていまでは疑問視されているこの概念も、東欧で誕生した当初においては、「関係」と「実体」とを独自の仕方で結びつける面白い概念のように見える。「実体」を批判して「関係」からものごとを捉えるべきだ、というような考えが、すでに相当に古くからあったことを再確認するとともに、「混淆」や「結合」という概念の難しさと面白さをも再認識する。