The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン』

ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン――新しい人文学に向けて』門林岳史監訳、フィルムアート社、2019年(原著2013年)

 

ブライドッティによれば、現代の科学技術の発達と政治経済のグローバル化によって、個人主義的な主体性を人間に認めがたくなってきている。この状況下で、三つのポストヒューマニズムの潮流があらわれてきているという。マーサ・ヌスバウムのように、普遍的な人間性の道徳的価値を復興させようという反動的ポストヒューマニズムないし新ヒューマニズム。ブリュノ・ラトゥールのように、人間と非人間が緊密な関係性を形成していることをたどる分析的ポストヒューマニズム。そしてブライドッティ自身の、生命一元論の観点から人間と非人間の集合的主体性を実験する批判的ポストヒューマニズムだ。

   *

ブライドッティの批判的ポストヒューマニズムとは、アファーマティヴなものだという。ヒューマニズムとアンチヒューマニズムの対立が理論的な袋小路に入り込んでしまっている現況に対して、批判的に介入するものだという。だがこの介入は、歴史性に根差した、個別的な系譜との取り組みとしてしか可能ではない。もちろんルネサンスヒューマニストはルネ・デカルトのコギトもイマヌエル・カントの超越論的主観性も知らない。戦後フランスのアンチヒューマニスト(フランス現代思想の立役者たち)が批判したのは、ルネサンスヒューマニズムではまったくなく、あくまで同時代の実存主義的・マルクス主義的・キリスト教的等々のヒューマニズムであっただろう。ブライドッティ自身のがどの系譜に取り組んでいるのか、その個別性を見失っては彼女の批判的ポストヒューマニズムの射程は見定められない。

   *

ブライドッティは、ポストヒューマン的な集団的主体性のいわば究極形を、地球への生成変化として語る。フェリックス・ガタリミシェル・セール、ブリュノ・ラトゥールらの議論を思い出させるが、ブライドッティによれば、環境問題に直面した人間と非人間が危機の共有において集団的主体性を形成する、という分析的ポストヒューマニズムの主張はいまだ受動的にすぎるという。ポストヒューマンという「概念的人物」(ドゥルーズ=ガタリ)によってより積極的に集団的主体性の可能性を開拓することが、彼女の狙いだ。この集団的主体性の基礎は、ゾーエー平等主義という生命一元論に求められている。

   *

普遍的で抽象的な人間性――しかし実は理性をもつ白人男性異性愛者を暗黙のモデルとした人間性――に代えて、何にもとづいて新しい共同性を打ち立て、新しい主体性をつくりだすか。個人的主体から集団的主体への転換については、ブライドッティ以前にすでに中井正一も考察し実験していた。ただ中井からブライドッティへとそのパラダイムは、機械と映画から、クローン羊とオンコマウスへと変わっている。土台も歴史性から身体性へと移っている。とはいえ、機械と歴史は身体と生命に含まれ、また含むものであることを、忘れるべきでない。