The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 信原幸弘編『シリーズ心の哲学〈2〉ロボット篇』(勁草書房、2004年)

シリーズ心の哲学〈2〉ロボット篇


おもに人工知能の研究やロボット工学をめぐる/にもとづく「心の哲学」の論文集。

古典的計算主義vsコネクショニズムやフレーム問題などがコンパクトに概観されており、全体の見通しを得るのに適した論文集のように思う。個人的な関心から、とくに力学系にもとづいた反表象主義の理論を興味深く読む。「表象」というあやふやな媒介を導入せずに理論化する試みは、生態学アフォーダンス理論)にもとづくタイプの反表象主義(この論文集にも収録されている)とも共通しているだろう。静止した実体や固定された図式としてではなく、動きつつあるプロセスとして捉えようとするかぎりにおいては、「心的表象」なるものは必要ない。

とするなら、問題となるのは、ものごとをたえざるプロセスとして捉えることはどこまで可能なのか、あるいは、そのプロセスとはいかなるものであるのか、ということだろう。すべてを運動として、過程として、動きとして捉えるべきとの主張は、すでに何百年もまえからなされていることだが、それでもなお「心的表象」なる考えを放逐できないのは、すべてを運動と見なしえないからなのだろうか、それとも運動の捉え方が不十分だからなのだろうか。こうしたことを考えるには、たとえば熱力学的な運動と情報学的な運動とを区別しようとしたミシェル・セールや、アリストテレスの〈潜勢態/現勢態〉の読解から運動について考察したジョルジョ・アガンベンなどを経由することもできるだろう。それははたしてプラクシスからポイエシスへの転回(アガンベン)を引き起こすのだろうか。そしてそのポイエシスは、アガンベンハイデガー的なポイエシスなのだろうか、それともまた別のポイエシスなのだろうか。

ところで、この書物に収録された最後ふたつの論文(どちらも生態学的な見地に立つもの)は、道具のことを、一方は問題=環境の変換と見なし、他方は身体の延長と見なしていた。この環境と行為主体とを媒介する道具の位置づけの曖昧さは、身体から環境までの連続性を示唆しているのかもしれないが、この連続性は、「行為」を軸にしてのみ成り立つものなのだろうか。