The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ユベール・ダミッシュ『雲の理論』

ユベール・ダミッシュ『雲の理論』松岡新一郎訳、法政大学出版局、2008年(原著1972年)

雲、描かれた雲は、空間でもあれば形象でもあり、象徴にもなれば物質を見せもする。これはたんに多様に使用されるというだけの話ではないし、多彩な機能をもつというだけのことでもない。ある歴史的境位においてこれらの機能が連鎖し作用する、その広がりが、展開が、問題だ。なぜならこの広がりに、思考が、理論が、あるからだ。質料形相論として、さらにはイデア論として、物質から独立した空間に価値を見させるのも、原子論として物質の作用に価値を見させるのも、雲だ。

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絵画において形象は、記号以下のものであると同時に記号以上のものでもある。というのも、他の形象を形象として成立させる構成原理(図に対する地)のはたらきをすると同時に、寓意や象徴として多重的解釈を呼び込みもするからだ。その作用の全貌は、歴史のなかで展開し、歴史を駆動する理論としてあらわれる。線描(ディセーニョ)と彩色(コロリート)の対立という理論が、いかに歴史のなかで絵画の数々を描かせたか、絵画の歴史をつくりあげたか、さらには絵画をそれ以外のものに結びつけたか。

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ブルクハルト、リーグル、ヴェルフリンらが理解した時代の転換に、まさにコレッジョが位置づけられるとしても、それはたんにコレッジョの様式ゆえにでもなければ、図像誌的にでも、寓意的内容ゆえにでもない。それ自体も形象でありながら他の形象の数々(天使や聖人)を統一的空間のなかに組み込む媒体たる雲は、様式、図像誌、寓意をすべて動員しながら、幾何学的遠近法によって生み出された秩序とは別の秩序を構成する。雲によってコレッジョは新しい空間の秩序をつくる。

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天と地が聖と俗としてあらわれ、それらの境界にして媒介に雲がなるのは、超歴史的かつ無時間的な元型にもとづいてのことではなく、そのように語られ描かれてきたという歴史の連鎖においてにほかならない。このときアビラのテレサや十字架のヨハネの言葉は、スルバランらの図像に単純に先立つわけでも典拠になっているのでもない。経験とその表現との区別は曖昧になる。とすれば、ダミッシュはエリアーデ流の象徴分類を斥けるとはいえ、エリアーデの言う祖型の反復という行為がこの歴史的連鎖を形成してはいないだろうか。

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表象はつねに二項関係(表象するものと表象されるもの)とはかぎらず、むしろルネサンス絵画の多くが演劇を手本としたように表象の表象でもありえる。まして人生さえもが芝居と見なされうるのだとしたら、この関係はどれほど多くの層をもつことだろうか。問題は、この表象の多重性、あるいは表象の連鎖が、たんに形象だけでなく構成において、語彙のみならず統辞法に関して、作用するということだ。空間が、秩序が、理論が、生じるのだ。

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夢と芸術の近しさは、機能や意味(願望充足)にではなく、仕事、作業にこそあると、ダミッシュは言う。言語や概念の論理とは異なる論理にしたがって形象をかたちづくる作業を、フロイトは夢に見いだしたが、それと同じ作業をダミッシュは物語の絵画化に見いだす。この洞察の根底にあるのは、知覚と言語の翻訳装置としての人間というフロイトのモデルだろう。意識は知覚という空間的に配列された情報を言語という時間的に配列された情報に翻訳し、夢はその逆の翻訳をする。空間と時間のあいだに無意識がある。

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線遠近法が幾何学の形式にもとづいて空間を構成するのだとすれば、空気遠近法は知覚の形式にもとづいて空間を構成する。初期ルネサンスからマニエリスムへの変化は、この幾何学から知覚への重点移動と言えるだろうか。とはいえ、問題はこの二つの節合だ。幾何学には運動がない。知覚には安定がない。レオナルド・ダ・ヴィンチスフマート技法によって運動と安定を一挙に捉えようとしていたのだろうか。

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レオナルド・ダ・ヴィンチにおいて空気遠近法とスフマート技法がいずれも雲の示すような陰影と色彩の問題に関わっており、知覚の形式に根拠を置いているのだとすれば、その根本の原理は、心理学ではなく光学だろう。ルネサンスにおける光の理論の広がりは、心理学をむしろ宇宙論へと結びつける。雲が、遠近法による空間描写と矛盾することによってかえってその自然の空間を超自然の領域と接続したごとく、光は知覚のメカニズムを介して感覚と世界とを一緒に構造化する。

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ラスキンからワーグナーにいたる、「真実」であるがゆえに完璧なる錯覚として現実を否定する芸術作品の位置づけに対して、ダミッシュは、「アナクロニズムだが」と言いつつ、中国の山水画の理論を対置する。歴史的には当時関係しなかったからこそ、中国の山水画は英国の風景画が想像だにできなかったものを示し、英国の風景画の無意識の前提をあらわにする。枠で閉じずに線で交感する山水画に対して、枠で閉じる風景画は、現実に代わる錯覚としての真実を与える。

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絵画の物質性といったところで、それによって絵画が絵画でなくなるわけでもなければ、絵画が絵画に見えなくなるわけでもない。感覚データや物理的・化学的データになるわけでもない。むしろ、歴史上に展開する効果の広がりにおいて絵画を理解することを可能にすると、ダミッシュは言う。『雲の理論』がセザンヌへの言及によって閉じられることは、ダミッシュとメルロ=ポンティの師弟関係を思い起こさせるが、またこの絵画理解は、仕掛け、装置、機械といったものに通じているとも思う。

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雲や軍馬や裸婦といったものに見えることと、絵画が軍馬や裸婦といったものを描いていることを、心理的投影によって説明するだけで満足すべきではない。心理主義は統一理論を打ち立てるかに見えて、その実、なにも説明していない。そう見えるのはそう見えると思えるから、なのだとすれば、ではなぜそう思うのか、その観念と事物の連合をさらに辿ろう。すると、心理なるものにすべて取り込まれてしまっていたのが、ふたたび反転して、世界のなかを心理が移動していくようになる。ゴンブリッチからダミッシュへの反転だ。