The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

カヴェル

  • Stanley Cavell, The World Viewd. (1971/79)

スタンリー・カヴェルの『観られた世界』、とくにシネフィルでもない身としてはどうにもとりつく島もない映画よもやま話が長々と続き、俳優のスターシステムやら映画の窃視性やらの指摘はカヴェルの専売特許というわけでもないのでどうしたものやらと思っていたが、「自動性」(オートマティズム)の話題になってようやく話が見えはじめる。
観客から切り離され独立した世界、という様相を呈する映画のありようをカヴェルは「自動性」という概念でもって理論化しようとしているわけだが、これは映画の存在論的ステータスを、その物質的基盤(フィルムのいわば「インデックス性」)とも作家=監督の主観性(「作家主義」)ともちがうレベルに据えるための戦略だと言える。別の言い方をすれば、カヴェル自身が参照しているクレメント・グリーンバーグ流のメディウム論を押し広げることが、ここで狙われている。同時に、主観から独立した世界を提示する映画は、世界を主観の構成物にしてしまう近代の観念論に対して実在を取り戻す「実在論」の試みでもある(まるで映画は思弁的実在論であるとでも言うかのようだ)。
最大のネックは、「自動性」という言葉によって指し示されている内実が、一方ではフィルム撮影のメカニズムがもたらすインデックス性のことであり、他方では主観(観客)からの映画世界の自立性のことであって、この両者の繋がりがいまひとつ不明瞭だということだろう。このことは3章までのフィルムやスクリーンの話と4章からのメディウムとしての俳優論との繋がりが不明瞭なところに端的にあらわれている。とはいえ、この両者を分離できない仕方で含み込んでいるところにこそ、「自動性」概念の賭金があるのだろう。その内実をもう少し追いかけてみることにしよう。