The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 Georges Didi-Huberman, Devant le temps, Minuit, Paris, 2000.

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(1953- )の『時間のまえで』から「開かれ、アナクロニックな学問としての美術史」を再読。

ディディ=ユベルマンの狙いは、これまでの歴史学の方法論的前提だった「影響」や「原型」による時間モデルを批判し、ヴァールブルクの「残存」(それはフロイトの「徴候」と「多重決定」や、ベンヤミンの「根源」の視点から解釈されたものだが)による新たな時間モデルを提出することにあると思う。そのために、これまでの歴史記述において禁じられてきた「アナクロニズム」を方法論的に採用しようとするわけだが、この「アナクロニズム」の概念がいささか曖昧なままで使用されているため、議論の展開に亀裂が生じてしまっている気がする。同時代性なるものが存在しないということ、イメージのうちには複数の時間性が孕まれていること、歴史は現在の時点から回顧的にしか語りえないということ、これらはたしかに相互に密接にかかわりあっているのだが、これらをすべてアナクロニズムのうちに含めてしまっていいのだろうか。語をあまりに厳密に定義しようとすると逆にその可能性を殺いでしまうことはたしかなのだが、だからといって曖昧なままにしておくと、それはそれで凡庸で陳腐な意味に解されて、その革新性が失われてしまうことがままある(たとえば、構造主義はある意味で表象主義への批判として登場したわけだから、「構造」を「深層」と捉えることはできないはずなのに、しばしばそう捉えられてしまっている)。

アナクロニズム」は、基本的にはある時代に属するものを別の時代に持ち込むことを言うわけだが、この「時代」なるものがそもそも所与の事実ではなく、歴史学の観点から「構築」されるものであることに注意する必要があるだろう。もちろん、ある意味で歴史の構築主義はもはや一般的な立場となっており(たとえばアナール派)、この指摘自体はなんら目新しいものではない。それに、歴史が回顧的にしか捉えられず、過去のなかに現在が不可避的に入り込むということは、すでに古くから指摘されていることでもある。では、「アナクロニズム」という視点の革新性はどこにあるのだろうか。それはやはり歴史学を支配している「時代」という枠組の外にある歴史について考えさせるからだろう。原型、集団的記憶、時代精神、心性、等々といった概念によるのとは別の歴史について。