The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ピエール・フランカステル『形象の解読〈1〉芸術の社会学的構造 (1981年)』(西野嘉章訳、新泉社、1981年)


ピエール・フランカステル(Pierre Francastel, 1900-1970)による、美術史の方法論や芸術作品の在り方についての諸論考(原著は1965年)。

フランカステルは、言うまでもなく「芸術の社会学」の先駆のひとりだが、今日「芸術の社会学」と聞いて思い起こされるような試み(ナタリー・エニックや、あるいはT.J.クラークなどの試み)とはかなり趣を異にしているように思う。フランカステルの言う「社会学」は、むしろジョルジュ・ディディ=ユベルマンの言う「人類学」に近しいだろう。これは、フランカステルがマルセル・モースのもとでも学んでいることを思えば、それほど不思議なことではない。そして、このフランカステル的な思考は、おそらくユベール・ダミッシュからダニエル・アラスを経てディディ=ユベルマンにまで――もちろんそれぞれかたちを変えながら――流れ込んでいるようにも思う。

「芸術の社会学」という呼称が思わせるのとは異となり、フランカステルは、芸術作品を同時代的な社会コンテクストに還元してしまうことを一貫して批判する。芸術作品は、あらかじめ存在する観念の「表現」や現実の「表象」ではなく、独自で還元しえない一個の「形象」なのだと、フランカステルはいくども強調する。だが同時に、この「芸術作品=形象」は「知覚されるもの」「現実的なもの」「想像的なもの」のみっつが交差する「場」(あるいは「ボロメオの環の結び目」?)であり、複数のものの関係と交錯のなかでしか意味をもたないという。「形象的客体」と「イメージ」との差異と結びつき、あるいは構造としての「かたち」と諸々の「形態」の関係などを論じながら、フランカステルはこの交錯する場に眼差しを向ける。

恣意性を誇張しコンテクストを偏重するタイプの構築主義的な手法がその限界を(ようやく?)露呈したかに見えるものの、かといって芸術作品の自律性なるものなどに回帰するわけにはいかない現在、フランカステルの鋭敏な洞察は、およそ40年の時を経ていよいよその重要性と革新性を顕わにしつつあるかのようだ。問題なのは、芸術作品が、すでにある観念や実在の「代替物=表象」ではなく、一個の「形象=場」であることを認めつつも、そこからさらに、その「形象=場=芸術作品」がそれ以外の観念や実在と関係をもち交錯するという事態(別の意味での「表象」?)を――フランカステルを継いで――理論化していくことだろう。ディディ=ユベルマンが「類似」や「アナクロニズム」によって理論化しようとしているように。