The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』(竹山博英訳、せりか書房、1988年)

カルロ・ギンズブルグ(1939- )の1986年に刊行された論文集。

空間的にも時間的にもかけはなれた歴史的出来事を比較したいという誘惑(=「形態学的」方法)と、時間的・空間的連続性にもとづいた厳密な記述をおこなおうという意志(=「歴史学的」方法)とのあいだのジレンマについて、序文で触れられている。この方法論的なジレンマは、収録されている1979年に書かれた論文「徴候」でもっとも豊かな帰結を導いているように思う。この論文では、細部や痕跡から全体を推論するというパラダイムについて、比較的自由に時代を往還しながらいくつもの事象を類比している。互いに離れた事象の類比とその歴史的関連付けとが互いに緊張関係を孕みつつ、議論が展開していくのを読むと、その先に「時代」という枠組を超えでるような歴史の在り方が仄見えるような気がする(もちろんこの論文の内容については、たとえばジョルジュ・ディディ=ユベルマンも言うように「徴候」を病跡学的にのみ捉えていたりと、いくつかの点で批判もあるのだが)。

また、収録されている1966年に書かれた論文「ヴァールブルクからゴンブリッチへ」は、ヴァールブルクからザクスル、パノフスキーを経てゴンブリッチへいたるまでの美術史の方法論を概観したもの。古い(いまや古典となった?)論文だが、芸術と歴史の関係についての問題点のひとつをうまく分析していると思う。

芸術を歴史資料として扱おうとする試みはいまや一般的に見られるようになった気もするが、しかし実は、芸術はそれほど単純に歴史資料として扱えるものではない。というのも、あるイメージ(絵画、版画、彫刻など)を歴史資料として読もうとしても、すでに別の歴史資料(文献)から得た知識をそのイメージに投射して見いだすことに終始してしまいがちだからだ。だからこそゴンブリッチは、芸術を「時代精神」やら「社会状況」やらのあらわれとみなす「表現主義」(今日では「表象主義」という名称のほうが一般的か)を批判する。そしてその批判は正しいだろう。芸術を規定しているのは人々の精神であり、その精神を規定しているのは経済状況であり、経済状況を規定しているのは政治状況であり、政治状況を規定しているのは倫理観であり、倫理観を規定しているのは教育であり……等々、こうした表象主義的説明は問題を無限に先送りしているだけなのだから。

とはいえ、こうした無限後退なしで(つまり自律したものとして)芸術を考察しようとしても、ギンズブルグが言うには、今度は芸術が歴史的に変化するということを説明できなくなる。そのため、ゴンブリッチは「機能」という観点によって社会性を導入せざるを得なくなったのだという。ギンズブルグがこの論文を書いたときにはまだゴンブリッチは現役だったため、ギンズブルグはゴンブリッチの今後に期待を寄せつつ筆をおいている。しかし現在から見てみると、この問題はいまだ解決したとは言いがたいだろう。表象主義ではない方法論にはいかなるものがありえるのだろうか。近年の異なる領域での議論も視野に入れるなら、たとえば、イマニュエル・ウォーラスティンの表象主義を批判したエティエンヌ・バリバールあたりを参照すると面白いかもしれない。

ところで、ヴァールブルクの方法論は、芸術を同時代の資料によって読み解いたり、逆に芸術によって同時代を読み解いたりするというだけのものなのだろうか。たしかにこうした方法こそがザクスルやパノフスキーに受け継がれたわけだが(その点でギンズブルグのまとめも正しいわけだが)、最近のヴァールブルクの再評価を見ていると、もっと違う方法論の可能性がヴァールブルクには孕まれているような気がする。このあたりのことはジョルジョ・アガンベン「アビ・ヴァールブルクと名前のない科学」とか、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』とかを読むのが良いかもしれない。