The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ルイ・マラン『絵画の記号学』

ルイ・マラン『絵画の記号学』篠田浩一郎、山崎庸一郎訳、岩波書店、1986年(原著1971年)

所収の論考「絵画記号学原理」で、マランはタブローの空間を「ユートピア」だと形容している。タブローは、枠内に観者の視点と視線を組織化する行動の実存的空間、生きられた空間だが、その実存的空間を無化して出現する本質的場所、ユートピア的祝祭でもあるという。イリュージョンではなくユートピア。観者は絵画のただなかで見て(voir)、絵画は観者を眼差す(regarder)――配慮し向かい合う――とは、のちのディディ=ユベルマンのミニマル・アート論そのものの言い回しだ。 

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論考「形象の言説」では、言葉とイメージの関係がプラトンにおける哲学と詭弁の関係に重ね合わされ、一つの定義に尽くされることなく多様な名づけを反復しつづける絵画についての言説のありようが示される。絵画とは何か、ではなく、絵画を見て語ることを可能にするのは何か。マランにとって絵画の記号学は、タブローがさまざまな名でたえず反復されるという言説の運動の多様性にこそあり、図像のあれこれを言葉の単語のように定義していくことにはない。それゆえに、タブローの読解はそのつどタブローの読解の理論でもあり、そのつどの歴史性を孕んで、しかしユートピアとして成立することになる。

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論考「どのようにタブローを読むか」は、文学(言語)への参照の明白な歴史画を避けて、シャンパーニュ、ボーシャン、シャルダン静物画、モンドリアン、クレーの抽象画を通して、絵画がみずからの指示対象を産出するメカニズムを探る。多種多様な社会的コードが絵画に適用されるにしても、それが絵画の基礎というわけではなく、むしろ絵画のほうがそうしたコードを巻き込む。基礎はあくまで描かれたものとその描き方のあいだの類似と差異、反復と対立だ。シャンパーニュの髑髏が虚栄のメッセージを伝えるのも、キリスト教道徳のコードを介してではあれ、それが現実ではありえない直立した正面性で描かれているからだ。

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論考「メダルと版画についての覚え書」では、エトガー・ヴィントを踏まえて、寓意像の二つのありようが区別される。すなわち、一つはすでに言説としてある思想を図解したものであり、もうひとつはいまだ言説になっていない思考を触発するものだ。言うなれば、前者はコンスタティヴなイメージ、後者はパフォーマティヴなイメージだろう。ルネサンスの紋章や寓意画は後者として、そのつどの読解の操作が反復的かつ多重的になされる。マランはそのありようを、フロイト『夢解釈』の判じ絵としての夢のありように重ね合わせる。判じ絵パラダイムにした夢をパラダイムにした寓意像がイメージのパラダイムになる。