The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

アーミテイジ

  • David Armitage, "What's the Big Idea? Intellectual History and the Longue Durée" (2012)

このところ思想史に「長期持続(Longue durée)」の視点が回帰してきているとして、イギリスの政治思想史家デイヴィッド・アーミテイジが、新たな「観念のなかの歴史(History in Ideas)」を提起したマニフェスト的な論考。ラヴジョイ的な通時態の観念史と、スキナー的な共時態の思想史と、その双方との方法論的差異を明確にしていく手際は鮮やかで、直線的な時系列を飛び越えて伝達され受容される政治的・倫理的・科学的観念――この論文では「civil war」が具体例として分析される――「のなかの」歴史を、「時間横断的な歴史(transtemporal history)」と「系列的な文脈主義(serial contextualism)」の方法論によって発掘していくべきという主張を、明快にまとめている。

観念の具体的な伝達・伝承・受容の物質的にして制度的な基盤を問うことで、かえって複数の時間を横断していく歴史を浮かび上がらせ(その意味で時間の横断は歴史を超えることではない)、そしてまた、その観念が実際に提起され発言された論争的な文脈・状況・戦略を再構築することで、かえってその同時代的文脈を超えて通底している過去(や現在や未来まで)を掘り起こす――このアーミテイジの方法論からは、もちろん、すぐさまフーコーからアガンベンにいたる「考古学」「系譜学」が連想されるところだけれど、でも同時に、この方法論を言説分析から事物や図像の分析へと拡張するなら、アビ・ヴァールブルクからユベール・ダミッシュにいたる美術史にもつながるように思う(アーミテイジ自身はニール・マクレガー『100のモノが語る世界の歴史』に言及している)。「観念」が非実体的にして問題提起的なものなのだとすれば、それはかならずしも「言語」と一対一対応するものではないだろう。ここに、「理論的対象」が思想史に(も)入り込んでくる余地がある。

アロア

  • Eammanuel Alloa, « Changer des sens. Quelques effets du “tournant iconique” » (2010)

イメージ論についての泰斗から新進の論客までを集めた論文集の編集を、このところ矢継ぎ早にいくつも手懸けているエマニュエル・アロア。その見通しの良さが、本人の論考にもよくあらわれている。が、裏を返せば、イメージ論の動向をそれなりに追いかけている人間にとっては、すべておなじみの見取図ということでもある。
ゴットフリート・ベームとW・J・T・ミッチェルによる「図像的転回〔iconic / pictorial turn〕」の提唱以降、イメージ学(Bildwissenschaften)やイメージ研究(image studies)の名のもとに、さまざまなイメージの地政学的・社会的・性差別的な意味や効力が分析されている。けれどもこのとき、イメージを言説制度や社会状況のたんなる「図解」に還元してしまうという、パノフスキー図像学のと似たようなアポリアが生じてもいる。それに対して、ジョージ・スタイナーやハンス=ウルリヒ・グンブレヒトのように、言葉に還元できない剥き出しの現前を主張する動きも出てきている。アロアは、このそれぞれを「アレゴリー」(別のものを語る)と「トートロジー」(同じことを語る)と特徴付けながら(そしてこの対立する二つをロラン・バルトのなかに集約的に見いだしながら)、そのいずれでもない第三のイメージの捉え方として、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンのような徴候的読解を位置づける。
わかりやすく見通しのよい図式だけれども、そのわかりやすさが逆に見落とさせてしまうイメージの一局面こそが、実は重要であるようにも思う。つまり、変換や翻訳の(「イコノクラッシュ」の?)問題。

セール

もはや何度目の再読だったか忘れてしまったものの、かなり久々にミシェル・セールとブルーノ・ラトゥールとの対談『解明』を手に取る。セール哲学への最良の手引きになっている書物だけれど(最後の客観的道徳としての普遍的な準客体の構成はまだこの時点では論じ切れていないきらいはあるが)、ちょうどラトゥールが『わたしたちはけっして近代的ではなかった』(邦題『虚構の「近代」』)を世に問うた頃の対談だけあって、重なる話題も多く、あわせて読むとラトゥールがどれほど忠実にセール哲学のプログラムを引き継ごうとしているのかがよく見える。

と同時に、再読してみるとセールとラトゥールの違いもあらためて感じられてくる。人文科学と自然科学――文化と自然――との分断を架橋していく際に、ラトゥールがどちらかといえば現代の政治的・制度的局面により介入していこうとしているのに対して、セールが引き受けようとしているのはむしろ「古典〔les humanités〕」であって、しかも人類の受苦の記憶としての古典である。人類史にパラジットのごとく遍在する暴力を抑えるために、逆に受苦の記憶としての古典の「ルネサンス」に向き合う、古典主義者にして人文主義者セール。そのアナクロニックな時間モデルも含めて、意外にもセールの哲学が――ベンヤミンフロイトなどよりもよほど――アビ・ヴァールブルクの美術史と重なって見えてくる。

もちろん、セールが積極的にマルセル・モースやジョルジュ・デュメジルやルネ・ジラールやフィリップ・デスコラらに応答していることに鑑みれば、こうした人類史的な展望での一致はさほど驚くべきことでもないのかもしれない。ブルーメンベルクやアドルノなども含めて、いちど本腰を入れて考えてみるべき問題のようにも思える。

カントーロヴィチ(ブーロー)

先頃『皇帝フリードリヒ二世』も翻訳されたエルンスト・カントーロヴィチの伝記を、アラン・ブーローが著したもの。当時の小説の筋などとの類比も交えてカントーロヴィチの歩みを大胆に再構成しているけれど、なかでもとくに大胆で(理論的な関心からすれば)示唆的なのは、カントロヴィッチの語る「神学」(神話、虚構、テーマ)をミシェル・フーコーの「言表」に近づけるところだろうか。神学の言葉が、現実のかたわらでもうひとつ別の現実を構成し、人々の思考と行動を導き、そうして現実それ自体を変形してしまう。
これをカントーロヴィチは「政治神学」と呼んでいるが、ブーローによれば、カール・シュミットら世俗化論者の言う「政治神学」とは話が逆になっているという。つまり、世俗化論では、西洋中世のキリスト教神学の諸概念が近代の政治の原型を与えた(虚構が現実に権力を与えた)という話になるものの、対するカントーロヴィチでは、政治が神学にしたがわざるをえなかった(現実の権力を虚構が奪った)という話になる。であれば、ここでカントーロヴィチをフーコーに加えてハンス・ブルーメンベルクにも近づけたくなるが、ともあれ、このところジョルジョ・アガンベンがおしすすめている政治神学の系譜学の射程も、こうした政治神学のヴァリエーションに注意して見定めなければならないように思う。

プレヴォー

  • Bertrand Prévost, « Direction-dimention » (2013)
  • Id., « Des putti et de leurs guirlandes » (à paraître)
  • Id., « Cosmique cosmétique » (2012)
  • Id., « L’ars plumaria en Amazonie » (2011)

 ひきつづいてベルトラン・プレヴォーの「イメージ人類学」的な装飾論。西洋美術でやたらと装飾的に描き込まれるプットーの形象を、実際に装飾として考えて、そこからゴンブリッチ幾何学的秩序に還元してしまった装飾論を刷新していく手際は鮮やか。さらに装身具、テキスタイル、入れ墨、はては人間を越えて動物の毛皮の文様まで、考察を広げていく。
 ゴットフリート・ゼンパーの再評価も面白いところだが、議論の要はここでもジル・ドゥルーズであり、そして装飾の「エレガンス」を「非人称化」に見たゲオルク・ジンメルである。世界の秩序とのアナロジーとしての装飾ではなく、自己の身体が投影された第二の身体としての装飾でもなく、身体の非人称化と超個体化によって「世界になること」としての装飾。「エレガンス」というカテゴリーの歴史性を問わないところはやや疑問が残るものの、なぜ装飾論が動物論につながるのかがよくわかる。

『現代の哲学的人間学』、ロータッカー

「哲学的人間学」(あるいは自然人類学や文化人類学と並べて「哲学人類学」と訳してもいいかもしれない)は、日本では1970年代あたりに一挙に翻訳されて研究書も書かれたものの、その後ほとんど途絶えてしまったように見える。記念碑的な『哲学の歴史』全12巻(中央公論新社)でも、まったく言及されていない。
とはいえ、このところ生態心理学のインパクトから「個体と環境の相互作用」や「人間と動物との境界」というユクスキュル的な主題が回帰してきているのを見るにつけ、ユクスキュルの発想を最大限に受け止めたヘルムート・プレスナーやアルノルト・ゲーレンらの哲学的人間学の成果は再吟味されてしかるべきようにも思う。マックス・シェーラーのように人間のみが「精神」に与るとするのでもなく、エルンスト・カッシーラーのように人間のみが「象徴」を有するとするのでもなしに、個体と環境の相互作用からいかに人間を理解できるだろうか。
おそらくは、このとき「イメージ」が問題になるからこそ、ベルトラン・プレヴォーやエマヌエーレ・コッチャが美学的観点からアドルフ・ポルトマン――哲学的人間学のもっとも近くにいた動物学者――の読み直しに着手しているのだろう。

プレヴォー

  • Bertrand Prévost, « Pouvoir ou efficacité symbolique des image » (2003)
  • Id., « Figure, figura, figurabilité » (à paraître)
  • Id., « Transporter-transformer » (à paraître)
  • Id., « Inverser-traverser » (à paraître)

ベルトラン・プレヴォーは、いよいよ「ジョルジュ・ディディ=ユベルマン以後」に打って出ようとしているのか、このところ精力的に研究を広げてきているよう。プレヴォーの出発点自体は、アビ・ヴァールブルクの衣鉢を継ぐかのごときイタリア・ルネサンス美術における身振りの問題だったものの(以前聴講した講義もその内容だった)、そこからネイティヴ・アメリカンの羽根飾りという、まさにイメージ「人類学」の研究にも手を広げたかと思えば、アドルフ・ポルトマンとレイモン・リュイエを軸にした「動物の美学」の問題にまで取り組んでいる。
レヴォーの理論的な立場を把握しようとすると、まずはこのあたりの論文ということになるのだろうけれど、なによりもジル・ドゥルーズへのはっきりとした依拠が特徴であるように見える。レオン・バッティスタ・アルベルティからクレメント・グリーンバーグにいたるまでの「面」の美学(「外延」の美学)に対して「強度(内包)」の美学を掘り起こそうというわけだが、ちょうどディディ=ユベルマンが「徴候」と「弁証法的イメージ」をキーワード(呪文)にしていたように、プレヴォーは「特異性」と「強度」を呪文にしていると言えるだろうか。
とはいえ、この特異性と強度への着眼は、デイヴィッド・フリードバーグ『イメージの力』への書評(2003年)で鋭く批判したイメージ人類学の素朴な心理主義的前提に対する、プレヴォー自身の回答でもあるように思う。この書評の段階ではまだ現象学と人類学のいっそうの取り込みに期待をかけるという、ディディ=ユベルマンやハンス・ベルティングらとさほど変わらない見解だったが、しかし早くも「機能主義」的な視点(イメージの機能や効力を問う研究姿勢)の限界を見定めていたことに注意したい。「パフォーマティヴ」のレヴェルからこぼれおちるものこそ、「強度」であり、「特異性」であり、もっと言えば「美学」ということになる。

ファルギエール

  • Particia Falguières, "The theatrum mundi in the Sixteenth century" (2005)

パトリシア・ファルギエールはルネサンス哲学と現代美術の二つを軸に据えた研究をしているので、個人的になんとなく親近感を覚えるが(時間割の都合で授業を取れなかったのがいまでも悔やまれる)、このインタビューでは、ルネサンスにおける「世界劇場〔theatrum mundi〕」の比喩を、プラトン『法律』にさかのぼる系譜ではなく、むしろ意外にも当時のアリストテレス主義との関連から、「機械の劇場」「トポスの論理と技術」として明快に解説している。
それによると、永遠不変の天上界と生成変化する月下界とを峻別するアリストテレス主義的な世界観を背景に、不可知だが表象可能な天上界に対して、可知的だが表象できない月下界をそれでも把握する普遍的道具として、ルネサンス的な「トポス」の技術が生み出されたという。いわばある種の分類のテクニックだが、中世のとは異なって、分類法(容れ物)と分類される事象(中味)とが無関係(そうでないと普遍的な応用性をもてない)なのが、特異な点であるとのこと。とすれば、一見すると網羅的で百科全書主義的たらんとしているかのようなルネサンスの分類法や論理学や記憶術……は、実は、全世界を包括的にあらわした表象ではないことになる(たとえイメージに満ちあふれていたとしても)。そうではなく、どんな偶然的なものでも秩序づけて構成しうるという意味で「普遍的」な、一つの道具にすぎない(別の仕方をとれば別の秩序へと構成しうるのであって、唯一絶対の完全な表象をつくりだすわけではない)。
天上界と月下界の区別を破棄するジョルダーノ・ブルーノは、この「道具」を全宇宙に適用してしまったようにも見えてくる。そうであるなら、ガリレイはまさにその反対のことをおこなって、数学という天上界の原理を月下界に適用し、この普遍的道具を解体したようにも思える。

マニグリエ

  • Patrice Maniglier, « Dessine-moi un éléphant ». (2010)

このところエリー・デューリングと並んで、現代思想と現代美術の双方にまたがる考察を精力的に展開しているパトリス・マニグリエ。芸術論『悪魔の遠近法』(2010)と映画論『フーコー、映画に行く』(2011)のあいだに発表されたこの小論を繙いてみると、問題意識もアプローチの仕方もデューリングによく似ている印象。さすが『マトリクス』について共著論文を書き、別々の論文でもしばしばたがいに参照しあっているだけのことはある、と言うべきか。
とはいえ、ある状況のローカルな知覚とグローバルな把握とのつながりを、あらかじめグローバルな構造が与えられていると想定しないで捉えよう、という問題意識には大いに共感できるものの(まさに「世界の複数性」だ)、芸術を「実験」と捉えるアプローチの仕方については、率直に言ってそれほど新しいものと思えなかったりする。否定しようというわけではないが、マニグリエもデューリングも取り上げる作品の傾向がわりとはっきりしているので、知らず知らずのうちに「実験っぽい」作品のみを選んで考察の範囲を狭めてしまう危険性を感じなくもない。そのとき、ローカルとグローバルとの連絡は「反復されるものの核」でもなく「反復されないものの特異性」でもないような同一性の様態にかかっているというその指摘から、さらにどれほど先にまで進んで行けるだろうか。

 哲学者の語彙集成

  • Le vocabulaire des philosophes, I: De l'Antiquité à la Renaissance, Paris, Ellipses, 2002.
  • Le vocabulaire des philosophes, II: Philosophie classique et moderne (XVIIe-XVIIIe siècle), Paris, Ellipses, 2002.
  • Le vocabulaire des philosophes, III: Philosophie moderne (XIXe siècle), Paris, Ellipses, 2002.
  • Le vocabulaire des philosophes, IV: Philosophie contemporaine (XXe siècle), Paris, Ellipses, 2002.
  • Le vocabulaire des philosophes, V: Suppléments I, Paris, Ellipses, 2006.

古代から現代までの哲学者の基本語彙を解説した事典五冊(まだ続刊の予定あり)。

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